江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2008-10-21
諸大名が迷惑するほどの絶倫ぶりとは?

最初の子どもが生まれたのは、家斉17歳のとき。お相手は、薩摩藩主島津重豪(しげひで)の娘茂姫(しげひめ)で、子どもが生まれたのは華燭(かしょく)の典の翌月だ。つまり、二人は婚前交渉をシッカリすませていたことになる。以来、徳川家きっての性豪家斉は、40人もの側室を相手に励み、最終的に、なんと28男27女をもうけた。
55歳で最後の子どもが生まれるまで、子どもが生まれなかった年はわずか7年。多い年には4人の子どもが生まれている。途中で「このくらいでもういいか」と思わなかったところがエライというかスゴイ。
ところで、これほど多くの子どもたちは、その後、どう育てられたのだろうか?子どもの死亡率が高かった江戸時代、家斉ジュニアの約半数は幼くして亡くなり、無事に成人したのは25人。といっても、将軍家にそれだけの子どもがいれば、いろいろと面倒な話も起きかねない・・・・・。というわけで、嫁や婿として、各大名に押しつける格好になった。むろん、これは各大名にしてみれば、有難迷惑な話だった。
将軍家と縁組すれば、家格が上がり、徳川家の旧家の松平姓や、三つ葉葵の家紋の使用を許されるとメリットはあったが、その一方、婚礼などに莫大な費用がかかるし、正当な継承者が日陰者になるなど、デメリットのほうがはるかに大きかったのだ。しかも、嫁や婿を迎えるにあったては、幕府からさまざまに指図され、当然、トラブルもおきた。
家斉の九女を嫁に迎えた姫路の酒井家では、幕府の指示と違う新居をつくってしまったため、家老が切腹するという事態になっている。さらに、五女を迎えた佐賀鍋島藩では、出費がかさんで参勤交代ができなくなったり、水戸藩では養子を迎えるかどうかでモメにモメ、藩内分裂が起きている。このように、家斉のお気楽な子づくりは、諸大名のたいへんな負担を生んだ。
ちなみに、今や東大のシンボルである「赤門」は、34番目の溶姫(やすひめ)が、加賀の前田家に嫁ぐときの専用で入り口として建てられたものである。
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2008-10-19
やっぱり夜も“暴れん坊将軍”だった?

将軍吉宗は、目安箱の設置や新田開発の推進といった享保の改革を行って、破綻寸前の幕府財政を再建した人物。時代劇でおなじみの名奉行大岡忠相を登用したのも彼である。しかし、この名君も、性生活においては文字どおり“暴れん坊将軍”だったとみえる。
たとえば、少年時代の吉宗が、紀州徳川家家老加納将監の家で養育されていたときのこと。当時まだ12歳だった吉宗は、加納家の女中を妊娠させたうえ、自分の母親の侍女にまで手を出した。さらに、16歳のときに狩りに出た先で、山伏の娘を妊娠させたとも伝えられている。そんな非行少年が、のちに「江戸幕府中興の祖」とたたえられるほどの名君となるのだから、人間とは不思議なものである。
ただし、そんな悪ガキ時代を暴くかのような事件が、吉宗の治世に起きている。「天一坊事件」と呼ばれる有名な事件だ。同時代の資料によると、事件が発覚したのは、享保14年(1729年)3月、関東郡代伊奈半左衛門の用人のもとに、とある浪人が問い合わせに訪れたためだった。その浪人によると、品川宿の常楽院という山伏のもとに、天一坊なる男がいて、「われは将軍のご落胤なり」と自称し、近々大名になるといって家臣を集めているという。浪人は、その話が本当かどうか尋ねに来たのだった。
もちろん、詐欺師天一坊は捕らえられて調べ上げられ、翌月死罪となった。捜査の結果、吉宗の子でもなんでもないことがわかったからだが、吉宗は陰で胸をなでおろしたに違いない。
2008-10-18
「犬公方」と呼ばれた将軍は、夜も“お犬様スタイル”がお好き?

そもそも、彼の父親である三代将軍家光からして、男好きで知られていたが、綱吉のそれは父親をはるかにしのいでいた。その証拠に、小姓の数が130人と歴代の将軍に比べてやたらと多かった。もちろん、彼らは、綱吉と寝床をともにするために選ばれた美少年たちである。
『三王外記』という著者不明の史書は、次のように暴露している。「将軍綱吉は若者を好んだ。彼らの大部分は色をもって昇進した」
じっさい、綱吉の治世では、12名の小姓が大名に取り立てられるなど、異例の大出世を果たす者が多かった。その筆頭が、わずか50石のから甲府の15万石に成り上がった柳沢吉保。吉保も、おそらく将軍の相手をつとめた一人だったことは間違いない。さらに、『三王外記』はこう続ける。「数十人もの小姓のうち20人余がとくに寵愛されて、柳沢吉保の邸宅に住まされた」
柳沢邸といえば、東京駒込の「六義園」が有名だが、綱吉のために使われた邸宅がどこをさしているかははっきりしない。ともあれ、美少年たちは男ばかりの“大奥”で吉保の家来の監督のもと、さまざまな教育をほどこされた。たとえば、綱吉はスリムな体型を好んだので、食生活を厳しく管理された。また、江戸城と柳沢邸の往復には厳しい監視がついていて、人と会っても口を利くことはできなかった。大奥と同じく、貞操を強いられていたのである。
こうして立派に“調教”された青少年たちは、綱吉の夜のお相手をつとめると、反物や道具類を与えられた。なお、本丸からは、そのほかにも毎度運び出されるものがあった。綱吉が小姓と交わったときに使った、寝間着や布団である。極度の潔癖症だったといわれる綱吉は、夜の汚れ物を江戸城の蔵に封印させていた。なぜ、それらを洗濯するなり、捨てるなりしなかったかは判然としない。
その「御穢れ物」は、綱吉の在世中は蔵のなかに封印され続け、綱吉の死後に芝の増上寺で焼かれた。
2008-10-16
「生まれながらの将軍」は「生まれながらの男色家」だった?

家光は、竹千代と呼ばれていた幼年期に、踊りに熱中していたという。当時の江戸では、女歌舞伎が風紀を乱すとして禁止された(1629年)ことから、若衆歌舞伎(少年俳優の演じる歌舞伎)が盛んだったが、竹千代はこれに大いに関心を寄せ、自分も美しく化粧をし、しなをつくって歌舞伎踊りの真似事をしていたのだ。幼いころから、すでにその“素質”はあったようだが、性生活のスタートとともに、彼は男色にのめり込むことになる。
幕府の記録『徳川実記』によると、家光は16歳のとき、坂部五右衛門という小姓を浴室で手討ちにしたという。理由についてはあいまいに書かれているが、「これは主君を犯し奉る天罰なるべし」とあるところからみると、入浴中の家光とコトに及ぼうとしていたらしい。一説によると、家光は五右衛門が同輩と戯れあっていたのを知り、嫉妬のあまり彼を手討ちにしたとされる。
また、青年時代の家光は、三つ下の小姓酒井重澄がことのほかお気に入りで、重澄の家にしばしば夜這いに出かけた。おかげで重澄は、10代の若さで、下総生実2万5000石を領する大名に出世した。しかし、この重澄、27歳のときに病気療養を理由に屋敷に引きこもり、こっそりと妻妾との間に4人の子をもうけた。ところが、これが家光にバレたから大変。とたんに所領を没収されてしまう。先の五右衛門の件といい、家光はひじょうに嫉妬深い男だったとみえる。
当然ながら、家臣たちは、こんな調子で男色にふける家光を心配した。とくに、家光の乳母春日野局は、家光がまったく大奥に足を運ぼうとしないことにあせり、「これでは、お世継ぎができませぬ」と、京都からとびきりの美女を呼び寄せた。そのかいあって、家光はしだいに女性にも関心をもつようになり、お楽の方との間に家綱(四代将軍)を、お玉の方との間に綱吉(五代将軍)を、お夏の方との間に綱重(六代将軍家宣の父)をもうけた。
周囲の気をもませつつも、家光は、将軍として果たすべき務めは、きちんと果たしたのである。
2008-09-07
大政奉還後も夜は“将軍様”だった?

彼は、徳川宗家を家達に譲って、自らは駿府(現在の静岡県)に移った。以来、公的な仕事とはまったくの無縁の、趣味の世界に生きるようになる。書画、馬術、弓術、狩猟、囲碁、将棋、謡曲のはほか、自転車や自動車、写真撮影に手を出すなど、その趣味はじつに多彩。とくに、当時の日本では珍しい舶来品を集めることに熱心だった。
しかし、彼が打ち込んだのは趣味の世界ばかりではなかった。悠々自適の身の上の元気な男性が、時間をもて余してすることといえば想像がつくだろう。引退後の慶喜は、せっせと子づくりに励むようになったのだ。慶喜は、生涯に10男11女をもうけた。男盛りで引退した人間が、ヒマをもてあまして励みに励んだ結果である。最初の子どもは、正室の美賀子夫人との間にできた女の子だったが、不幸にも早世してしまう。その後に生まれたのは皆、側室との間にもうけた子どもである。つまり慶喜は、江戸城を追い出されたあとも、このへんの感覚だけは、シッカリ将軍様だったのだ。いろいろな意味で元気だった慶喜は、大正2年(1913年)、つまり大正時代まで生きて、77歳でその生涯を閉じた。これは、歴代徳川将軍のなかでも最高齢である。
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