江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-09-04

大奥が、江戸城明け渡しに頑として反対した理由とは?

西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸開城が決まったのは、慶応4年(1868年)3月13日のこと。その二日後には、若年寄以下、旧幕府の役人は江戸城を出ていった。大奥の女性たちも江戸城を立ち退くことになり、ほとんどが里帰りを命じられた。
そのなかで、当時、大奥の実権を握っていた天璋院(13代家定の正室)とそのお付の女中たちは徳川御三卿の一つ、田安家に移った。同行したのは14代家茂の正室とそのお付の女中、さらに、15代慶喜夫人とそのお付の女中たちだった。彼女たちがそれぞれ里へ帰らず、田安家に入ったのは、徳川家復興を信じていたから。
その中心人物だった天璋院は、もともと薩摩藩の家老の娘で、まず藩主島津斉彬(しまずなりあきら)の養女となり、その後、近衛家の養女となっていくつものハクをつけてから、家定の三番目の正室となった女性。そのため、権力への執着心は人一倍強かった。
14代家茂は、「自分にもしものことがあれば、田安家の亀之助(のちの家達)を次の将軍に」と言い残していた。しかし、大坂で将軍が亡くなったとき、亀之助は、まだ4歳。あまりに幼いというので、慶喜が15代将軍につく。天璋院たちが田安家に移ったのは、徳川復興に備え、亀之助の教育にあたるためでもあった。
じつは、江戸開城が決まったあと、天璋院を里の薩摩へ返そうという動きがあったのだが、天璋院は猛反発。「何の罪があって里へお返しになるか。一歩もここを動きません。もし無理にでもお返しになれば自害する」と、懐剣を手放さなかった。
そのため、江戸城を明け渡すときも、「形式的に2、3日、明け渡せばよい」とだまされて連れ出された。天璋院は、徳川260年の威光を見せつけようと、雪舟の掛け軸なども飾り置いたまま出てきたという。
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2008-06-30

大奥の奥女中たちのストレス発散イベントとは?

優雅なイメージの大奥も、じつはひじょうに気苦労の多い職場だった。実権を握っている「御年寄」のようなうるさ方が多いうえ、大部屋住まいの女中にはプライベートの時間もなかった。
そんな彼女たちが唯一、思い切りストレスを発散できる日があった。年の瀬も迫った大晦日の夜である。年越しの夜、大奥では、一風変った「新参舞」という行事が行われた。大奥のなかでも、新規召抱えになった御末という女中たちが、裸踊りを披露して、ドンチャン騒ぎをするというものだ。
ステージは、大奥御膳所の上段板の間。その近くに屏風を立てたり、布を引っ張ったりして目を隠し、御台所がそっとのぞけるようにしておく。そうして準備が整ったところで、木綿の湯巻き、頭に手拭い、手には柄杓やすりこぎなどの小道具を持った踊り子が登場。やがて、古参の御末がヤカンや桶の底を叩いて、お囃子をはじめると、踊り子たちが踊りだす、という趣向である。
たんなる新米イビリのように思えるが、刺青があるかどうか調べるためにはじまったとか、裸ではなく、ただ踊ったり歌ったりしているだけだったとか、このイベントの本来の目的や実態はよくわかっていない。ただ一つ、はっきりいえるのは、奥女中たちが、新米をイビリたくなるほど、ストレスをためこんでいたということだ。なにせ、大奥には男っ気がまるでないのどから、みんな欲求不満だったのである。そのため、節分のときに、年男が大奥にやってくると、それはたいへんな騒ぎになったという。
豆まきといっても、現代のように「鬼は~そと、福は~うち」といって豆をまくスタイルとは違う。年男は無言でひたすら豆をまいて帰ってしまうだけで、そのうえ豆まき係の男といえば、50歳くらいのオッサンだった。それでも、男は男なわけで、女中たちも最初はおとなしくしているが、そのうちちょっかいをだしはじめて、帰ろうとする年男を取り囲んでしまう。それから、布団でぐるぐるの簀巻きにして、歌を歌いながら胴上げするのだ。
この初老の年男をおもちゃにできる豆まきイベントは、大奥の奥女中の人気ナンバーワン行事だったという。

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2008-06-28

なぜ、将軍の寝所に「聞き耳役」を置くようになった?

将軍の寝所では、別の女官が聞き耳を立て、翌日、耳にしたことを報告する義務がある。こんな義務が必要になったのは、五代綱吉のある騒動がきっかけだった。いわゆる「柳沢騒動」と呼ばれる事件だった。
綱吉の愛妾に染子という女性がいた。のちに、綱吉は、染子を柳沢吉保に下されたのだが、吉保の側室になってからも、染子は綱吉の寝所に召されることがあった。よほど、綱吉に寵愛されていたのだろう。そのことに目をつけたのが、吉保である。染子を利用して、将軍から領地をもらおうと企んだのだ。染子から寝床でねだられた将軍は、「御側用人・柳沢吉保に100万石を与える」というお墨付きを書いてしまう。
これに驚いたのが、老中などの幕府の重役たちである。ところが、そのお墨付きが実行される前に、綱吉が死去したため、騒動自体はおさまった。ところが、この事件で迷惑をこうむったのが、大奥の女性たちである。将軍が大奥泊まりをするさい、側室と二人きりにしておくのは危ない、という理由で、寝床に監視役がつけられることになったのだ。「柳沢騒動」の二の舞をおそれたのである。
その後、大奥では、将軍が大奥に泊まる際には、”聞き耳役”として、添寝役の御中臈と御坊主の二人の女性を、将軍の寝所に配属させることにした。寝所には、将軍の床と、その晩のお相手となる御中臈の床の二つ、そのほかに聞き耳役の二つの床が用意されていたわけである。

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2008-06-27

一大イベントだった?徳川将軍の「夜の生活」

徳川将軍には、「御台所」と呼ばれる正妻がいた。しかし、正妻一人では、跡継ぎの男の子が生まれるかどうかは不安である。また将軍も、「これは」と思う女性と一夜をともにしてみたい。そこで、正妻のほかに、十数人の側室を置いた。
将軍が「よし、今夜がんばるぞ」と思えば、夕方までに、そばに仕えるお小姓にお相手をする女性の名を告げる。すると、お小姓が大奥の連絡係である「御坊主」に連絡。彼女が、指名された女性の名前を「御年寄」に伝えた。
指名された女性は、さっそく体を清めたり、髪を整えるなどの準備をはじめ、将軍が訪れる一時間前には寝所へ入る。そこで御年寄が中心となって、指名女性の身体検査をする。凶器や怪しげな文書を隠し持っていないかなどを調べるため、髪までほどいたという。やっと将軍が来ても、すぐにはコトにはおよばない。お茶が出て、御年寄、御坊主も交えてひとしきりの雑談。やがて、布団が敷かれ、ようやく将軍と指名女性が布団のなかに入る。
ところが、指名女性の反対側には、将軍に背を向けて、別の女官が寝ている。さらに、御坊主もそのまま部屋に残っている。また、隣の間では、御年寄と残りの女官が聞き耳をたてていた。これが大奥独特の規則で、彼女たちは将軍のほうを見てはいけないが、眠ってもいけない。床入りした女性が、睦言で不正を働きかけないように、一部始終を聞いていなければならなかったのだ。そして、翌日、耳にしたことをありのまま報告する義務もあった。
といっても、その報告は「将軍さまったら、スゴイんです。お手を背後から・・・・・」なんてことではなく、「お上におかれましては、はじめ御気鬱であられましたが、やがて御機嫌も晴れ・・・・・・」というように、格調高く行われていた。

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2008-06-26

大奥をゆるがした一大スキャンダルとその結末とは?

正徳2年(1712年)、徳川六代将軍家宣がわずか3年の治世で病没すると、ウワサ好きの奥女中たちの間で、ねたみと羨望のまじりあった艶聞がささやかれるようになった。ウワサになったのは、月光院と間部詮房(まなべあきふさ)との関係である。
月光院は、家宣の側室で七代将軍家継の生母。家宣を亡くして剃髪したときは、まだ24歳という若さだったが、わずか4歳の家継を抱え、絶大な権力者として大奥に君臨していた。一方、間部詮房は家宣の腹心だった側用人で、月光院の子の家継を立てて幕政にあたっていた。それで、大奥にいる幼君のもとに、ご機嫌うかがいに出向くことが多かった。ウワサの出どころはそこである。
「ほら、今日も間部様がお見えですわよ。月光院様との仲がよろしいようで、うらやましいかぎりですわね。「間部様は、おひとりの身でしょう。この間なんか、吹上の御庭で仲良く寄り添っていらっしゃって。まるでご夫婦のようでしたわ」
二人の仲が男女の関係まで発展していたかどうかは、はっきりしないものの、ともかく「深い仲」だと、大奥の誰もがウワサしていたのだ。幼君家継でさえ、あるとき母親と間部が密会しているのを見て、「詮房こそ将軍のよう」と、子どもならではの感想を口にしたことがあるという。
しかし、こうしたウワサには、月光院と間部へのねたみがずいぶん影響していたと考えられる。間部は、能役者から五万石の大名にまで成り上がった人物。身分制が厳格な江戸時代において、これほどの出世は異例である。月光院もまた住職の娘で、そもそも身分は高くなかった。それで、二人が幼君を盾に実権を握っていることを、こころよく思わない人間が少なくなかったのだ。
もちろん、幕閣首脳の間でも反感はつのり、間部が評定に出席しても、まったく相手にしないといった”イジメ”が加えられた。結果、間部は大奥の勢力を味方にしようと、ますます足しげく月光院のもとに通うようになったのである。
そんななかで起きたのが、正徳4年の『絵島生島事件』である。たのみの綱の幼君家継が風邪をこじらせて早世したあとは、当然ながら月光院の権威はガタ落ちし、間部は政権を追われて失脚した。
吉宗が八代将軍になった日、かつて権勢を誇った二人のことを、世間は次のような歌で皮肉った。「おぼろ月に手をとりかわし吹上の御庭の花の宴もつきたり」。

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江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

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