江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2009-02-02
「目付」の歩き方はこんなに特徴的?

目付の役割は監督のほかに警備役もあり、品行方正で文武にすぐれた者が就いたが、じっさいには石頭、頑固で冷徹な者が多かったという。悪事を働いた大名を見つければ、容赦なく摘発した。自分の父親を摘発して切腹までさせた目付もいたという。
また、「目付」の仕事は広範囲にわたっていた。若年寄に属して江戸城内外の査察、非常時の差配、殿中礼法の指揮などを行った。その仕事は激務で、休みの日などなかった。もちろん毎日登城して、役人たちに非がないか、きちんと勤務しているかどうか目を光らせた。
この目付が登城するときに、変った習慣があった。江戸城の大手門前にくると、石垣に平行して直進し、直角に曲がって門のなかに入った。けっして斜めには進まない。門を入ると番所の番士が拍子木を打つ。そして、下座見が「へおー」と声を上げて奥に知らせる。目付はまた直角に曲がって、玄関のほうへ直進するといった具合である。この変った歩き方は目付の特徴で、隅々まで見極めるためにこのような歩き方をしていたのだ。
雪がつもった日でもこの歩き方は変らず、目付は雪がよけられてない道をわざわざ歩いていたという。このような直角直進の歩き方は、「泣く子も黙る」といわれた目付の性格をよく表しているといえるだろう。
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2008-11-27
大名が江戸城の役人にゴマをすったワケとは?

大名は駕籠から降り、ひとりで城内に入る。すると、日ごろは何もかも家臣まかせの大名は、ひとりでは何もできない。ましてや慣れない城内である。その手助けをするために江戸城にいたのが「お城坊主」。いわば大名の世話係である。小間使いのような存在で、お城勤めの役人としては下っ端だが、彼らの力は大きかった。なにしろ間違った作法を教えるなどして、大名に恥をかかせることもできたからである。大名のほうが萎縮してゴマをすらねばならないほどだった。
そのゴマすりの代表がお城坊主からのチップの要求に応えることだった。お城坊主は、城内では請求しづらいので、後日大名の屋敷を訪ねて集金して回ったという。。お城坊主の訪問を受けた屋敷では、主君が恥をかいては困るので、家臣がこっそり渡すのがしきたりだった。
このようにして、大名からお金をせしめるお城坊主の最大の稼ぎどきは正月だった。正月に大名の屋敷を訪ね、部屋にある調度品などをさりげなくほめるのだ。
お城坊主を最大限もてなさなければならない大名は、ほめられれば「与える」といわざるをえない。それを承知で大名のほうもたいしたものは部屋には飾らなかったというが、お城坊主は自分が担当する大名の屋敷をいくつか回ればそれなりの役得にありつけたのである。
2008-11-24
江戸城に登城するさいの大名のしきたりとは?

大名は、元旦や五節句などの幕府にとって重要な日や、月次登城といわれる月例の登城日に江戸城に登城する必要があった。この登城のさいには、身分や城持ちか無城かなどの家格によって、控えの間も厳密に区別されていた。「大廊下」は、もっとも家格が高い御三家の控えの間であり、御三家の次に家格が高い加賀前田家、越前松平家、鷹司松平家もここに詰めていた。「大広間」は10万石以上の外様大名である島津家、伊達家、細川家の分家の控えの間であった。
また、「帝鑑(ていかん)の間」は城持ちの譜代大名や旧臣、水戸徳川家や越前松平家の分家の控えの間。「柳の間」は10万石未満の外様大名、表高家などの控えの間であった。「溜(たまり)の間」は、彦根井伊家、会津松平家、高松松平家のほか、10万石以上の譜代大名の定席である。そして、「雁の間」には10万石未満の譜代大名や高家などが控える。「菊の間」は無城で2万石以下の譜代大名や大番頭、書院番頭、小姓組番頭などが詰めた、という具合に細かく区別がなされていたのだ。その上、それぞれの控えの間のなかで、将軍に拝謁するときの座る位置まで決められていた。
さらに、大名たちは朝廷からもらう官位によって、登城するときの衣装が細かく定められていた。官位は一位から八位まであり、宮中に上がれるのは従五位下以上の者であった。大名はすべて従五位下以上である。
江戸城に登城すれば、大名たちはいやがうえにも、自分の家格をまざまざと見せつけられていたのである。
2008-10-24
武士たちが恐れた「武家諸法度」の中身とは?

この『武家諸法度』は、法律というよりは、武士の心得を定めたものという性格が強かった。たとえば、「文武に心がける」「参勤交代を行う」「勝手に婚姻を結んではいけない」「勝手に城の修復をしてはいけない」「勝手に大型船をつくってはいけない」といった内容である。要は、幕府が大名を取り締まるためのものだから、何をするにも、まず幕府にお伺いを立てなさいという意味合いがこめられている。
もうひとつ、『武家諸法度』の特徴としてあげられるのが、ひじょうに大ざっぱで、基本的なことしか書かれていないということだ。「○○したら、処罰される」というような具体的な記述はまったくない。これは、幕府の解釈ひとつで、いかようにも処罰を決められるように、わざと基本的なことしか記してないのである。明文化していないので、そのときの幕府の判断によってどうにでも転ぶというわけだ。
大名は、同じような行動をとっても、お咎めを受けない場合もあれば、切腹やお家断絶などの厳しい処分となる場合もあり、まったく先が読めなかった。つねに幕府の顔色をうかがっていなくてはならず、反論することも許されない。幕府が大名統制のために定めた法律は、ひじょうにやっかいなものだった。
2008-09-09
大名行列の前で庶民は本当に「上下座」した?

ほかの大名の行列では、行列の通行を邪魔しないように、道の端に寄るだけでよかった。同じ大名でも、家格によって庶民の対応もちがったのである。また、大名行列が威厳を示しながらゆったりと歩くのは町なかだけの話。町を一歩でると、急ぎ足で街道を進んだ。
なぜなら、大名行列には先を急がなくてはならない事情があったからだ。江戸へ上る日は、あらかじめ老中に届けてあったため、遅れるわけにはいかなかった。万が一天候不良などで足止めをくった場合は、その時々で老中に報告するという厳格さだった。また、旅程に沿って宿泊施設に予約を取っていたから、到着が遅れるとその日のために用意していた多数の夕食などが無駄になってしまう。なんとしても予定どおりに本陣に着く必要があった。
そんな事情なら、旅程の遅れが出ないようにゆったりとした予定を組めばよいと思うかもしれない。しかし、現実には、そうはいかなかったのである。その理由は、一日延びると、旅費がそれだけかさんだからである。宿泊すれば、その地の領主のもてなしを受けることになっており、そのもてなしの返礼として、相応の進物を用意しなければならなかったのである。そのため、各大名は、なるべく宿泊しなくてもすむように短期間で江戸へ行こうと強行軍での旅を行った。だから、道中はとにかく急いだのである。
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