江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2009-04-01

相手の顔も知らないまま結婚していた武士たち!

江戸時代の武家社会では、相手の顔も知らないまま結婚するといケースが多くあった。武家の縁組は、家格のつりあいや、家臣としての仕事内容、派閥の所属などを考慮したうえで、親や上司の思惑で決められたからである。それでも下級武士の場合は、まだ相手が上司の娘とか同輩の妹などが多かったため、顔くらいは知っていた。
しかしこれが大名ともなると婚礼の当日になってはじめて対面するということも珍しくなかった。
では、相手の顔も知らないまま結婚しなければならなかった大名は、いざ結婚してみて、どうしても好みではないとわかった場合にはどうしたのだろうか。
じつは、このようなことは大名にとってたいした問題ではなかった。なぜなら、江戸時代大名は正室のほかに側室も持つのがふつうだったからだ。つまり、一夫多妻制だったのである。正室が気に入らなければ、自分で好みの女性を見つけてきて、側室にしてしまえばよかった。現代人にとっては、まさに驚きのしきたりといえる。
また、結婚にかんしては、幕府の許可を受けなければいけないという決まりもあった。江戸初期に定められた『武家諸法度』には、「勝手に婚姻を結んではならない」という条項が設けられていたのだ。
このような条項を定めたのは、大名同士の婚姻により大藩が手を結び、幕府に反旗をひるがえす可能性を恐れたからだった。これが、八代将軍吉宗の時代には、どんな下級武士のも適用されるようになったのである。
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2009-01-27

武士にも「受験勉強」があった?

江戸時代の徳川幕藩体制のなかで、将軍家に直接仕えている旗本や御家人の武士は「直参」と呼ばれ、名門とされた。しかし、だからといって安穏とはしていられなかった。名門だけに家督を継承するには資格が必要とされたからだ。その目安となったのが、「素読吟味(そどくぎんみ)」と呼ばれた試験である。
この試験は、毎年10月と11月に行われていた。11人もいる試験官を前に「四書五経(四書は大学・中庸・論語・孟子。五経は易経・書経・詩経・礼記・春秋)」の書物のなかのどれかを、いわれるままのページを開いて声に出して読むというのが試験内容だ。なんだ読むだけか、といっても、書物に書かれているのは漢文だからほとんど丸暗記でもしていなければ、正しく読み下すことはできない。町人の子が、ただ寺子屋で文字の読み書きを習うのとはちがう勉強が、直参の子どもたちには求められていたのである。
そんな彼らの受験勉強は、5歳の手習いからはじめられ、7歳になると素読(文章の意味は考えず、文字だけを声に出して読むこと)の練習をはじめる。テレビの時代劇で武士の子が、書物を開いて「し、のたまわく~」などと声に出しているのが、その勉強なのである。最初は父兄が基礎を教え、さらに、8歳くらいから師匠のところへ通いはじめる。それを数年続けて、だいたい13歳くらいになると受験の願書を出す。受験資格は17歳からと定められていたが、そんな年になるまで勉強しなければならないようでは、合格はおぼつかない。学問所もその事情は承知しており、実年齢が何歳であろうと願書に17歳と記入してあれば受け付けたという。
ただし、いくら年齢が若くても3回不合格になったら受験資格を失った。こうなると、たとえ長男であっても、家督相続資格を失い、どこかに養子の口でもない限り、一生を「部屋住み」と称する実家の居候生活ですごすことになった。

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2008-11-22

切腹は「腹を切らないのが作法」だって?

武士道では、切腹が最高の死に方とされた。腹を切る死に方は諸外国にもあるというが、切腹という作法が定められて、法律で制度化されたのは日本の武士の世界だけである。では、なぜ切腹という方法が生まれたのだろうか。これには、まず、生命の根源は腹部にあるという思想があった。ここを切り開いて腹のなかを見せ、身の潔白を証明することが、武士の名誉や勇気を示すことになったのである。
武士の切腹は、時代によって意味合いが微妙にちがっている。源平時代は、朝廷にたいして謀反心がないことを示すため、南北朝時代は、敗者が最後の武勇を示すため、戦国時代には敗者が責任を負うため、というように変ってくる。そして戦国時代末期には、切腹が武士の名誉ある刑となり、その作法も確率した。
切腹の作法とは、まず、切腹人は湯で体を清め白無垢、無紋の裃を身につけ、北面して座し、末期の水を二口飲む。末期の水とは、死にゆく人の喉の渇きを癒すための水のことである。次に「三方」と呼ばれる台に載せた切腹刀が運ばれてきたら、切腹人は検使に目礼、前を押し広げ、三方を少し手前に引き、左手で切腹刀を取り上げ、右手を下から添えて目の高さにおしいただく。切腹刀を右手に持ち替え、左手でへその上を三度なで、一気に切っ先を左わき腹に突き立てる。そのまま右腹まで引きまわす。そして刀をいったん抜き、持ち替えて刃を下にし、みぞおちへ切っ先を突き立てて、へその下まで切り下げる。それでも絶命しなっかたら、喉を突く。
介錯人は切腹人の左斜め後ろの立ち、切腹人の呼吸をはかって一気に首を切り落とす。検使が首を確かめて切腹は終わる。
だが、この作法は、じっさいにはむずかしく、切腹刀を腹に突き立てるのは容易ではなかったという。さらに刀を引きまわすときは、大変な苦痛をともない、多くの場合切り口からは内臓が飛び出した。なかには、切った腹から自分の腸を引っ張り出し、潔白を証明する者もいた。だが、江戸時代には、じっさいには腹を切らないことのほうが多かったようだ。切腹人が小刀を取ろうと手を伸ばしたところで介錯人が首を切り落とした。また、小刀の代わりに白扇を使い、これをおしいただいた瞬間に、首を打ち落とすという方法もとられた。

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2008-10-31

「成人の儀」はどのように行われていた?

江戸時代武士は、15歳前後で成人の儀である「元服」を行った。前髪部分を剃って髪形を変え、衣服も大人用に改めるという儀式である。
親類や知人のなかから選ばれた有力者の男性が、烏帽子(えぼし)親として介添え役をつとめ、吉日を選んで儀式が行われた。烏帽子親は、元服する者が前髪を剃ったあと、烏帽子を与える役目を持っていたためこのように呼ばれた。この烏帽子を与えるという動作をはじめ、小笠原流が伝える『元服之次第』には、儀式での服装、使う道具、髪を剃る作法から酒の交わし方まで元服のしきたりが細かく記されている。
しかし、現実にはこれらの儀式を完璧にこなすのは、将軍や有力な大名の家くらいであり、ふつうの武士の家では簡略化されるケースが多かったようだ。この簡略化されたしきたりのなかには、烏帽子を与えるという動作もふくまれている。江戸時代になると、現実には武士が烏帽子をかぶって正装する機会など、それこそ将軍か大名でもなければならなかったから、前髪を剃ったあと烏帽子をかぶり素襖(すおう、直垂(ひたたれ)の一種)・袴を身につけるという作法は行われなくなったのである。
時代は下り、江戸時代中期以降になると将軍ですら元服の儀式を簡略化するようになった。そのため、烏帽子親はその名が変り、元服親と呼ばれるようになった。烏帽子親は元服する武士に新しく名前をつける役目も担っていたからである。乳幼児の死亡率が高く、きちんと成人できるかどうか不安をかかえていた武家では、元服を、第二の誕生日と受けとめていた。そのため、元服のさい幼児期代の名前から新しく大人の名前につけかえたのである。
武士にとって元服とは、いわば“生まれ変わり”の儀式でもあったのだ。

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2008-09-29

武士は無断外泊を禁じられていた?

江戸時代は武家社会のため、武士は多くの特権を持っていた。しかし、そのいっぽうで、武士であるがゆえに行動が規制されるという一面も持っていた。たとえば、旗本・御家人は、御府内から外に出る場合には、必ず届けを出さなくてはならなかった。いざというときに戦場へ駆けつけて戦わなければいけないのだから、所在がわからなくては役にたたない。つねに、どこにいるかを明らかにしておく必要があったのである。
そのため旗本・御家人は、どこかに出かけるときでも、日帰りが基本だった。つまり、いくら暇な役職でも、ぶらぶらと遠くまで気ままに出かけることは許されなかったのである。たとえ江戸にいる場合でも、武士の行動には制限があった。それが外泊禁止である。武士は、その日のうちに必ず自宅へ帰っていなければならなかった。その日のうちとは、だいたい日付が変る子の刻(午後12時)までである。お酒を飲んでいて午前様といった状態は許されなかったのである。
万一、子の刻までに帰宅していないことが幕府に知れたら、その武士はお咎めを受け、最悪の場合には、お家断絶にいたる可能性さえあった。何かの事情で外泊しなければならない場合には、幕府への届け出が必要だったのである。この外泊禁止も、非常時に備えてのことである。
こうなると、武士の生活はとても味気ないものに思えてくる。しかし、武士のほうも心得たもので「外泊ができないのなら」と、昼間に遊郭を訪れ、昼のうちに遊んでいた。これなら、幕府からお咎めを受けることはないというわけである。

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江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

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