江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2007-10-31
江戸庶民が暮らしていた長屋ってどんなところ?

長屋が狭かったのは、そもそも江戸の土地の多くを武士たちが使っていたからである。庶民の住める土地は江戸市中の16%しかなかった。
そこに50万人もの町人が住んでいただから、当然、一人当たりの面積は小さくなる。町人のおよそ七割は長屋で暮らしていたと推定されている。
江戸庶民の住む長屋は、まず表通りに面して「表長屋」が軒を連ねていた。表長屋は、たいてい店舗兼住宅になっていて、二階建てのものが多かった。また、そのほとんどに小商いを営む一家が暮らしていた。
その表長屋の裏側にあったのが「裏長屋」である。落語の八つぁん、熊さんといった庶民が暮らす場所である。
裏長屋への出入りは、木戸をくぐった。木戸をくぐると路地があり、その路地の両側に、いわゆる棟割長屋がつらなっていたのだ。
「九尺二間の裏長屋」といわれたように、裏長屋の一軒分は、間口が九尺(約2.7メートル)、奥行きが二間(約3.6メートル)、つまりおよそ六畳ほどの広さだった。
これは土間や流し、へっつい(かまど)も含めたスペースだから、寝起きできるのはせいぜい四畳半ほど。
そこに生活道具を置き、親子数人で暮らしていた。
長屋のつくりは、限界ぎりぎりの安普請である。畳が敷かれていればいいほうで、板敷きもすくなくなかった。
隣の部屋との間には薄い壁があるだけで、壁には穴が開いていることもあった。隣の声はほぼ筒抜けであり、プライバシーなど確保のしようもなかったのだ。
便所とゴミ溜めは共同で、井戸がない長屋もあった。しかし、あったところで飲用には使えず、飲み水は水屋から買わなければならなかった。
そんな狭い長屋暮らしだから、同じ長屋の住人には気を遣い合わざるをえない。
みなが共同スペースをきれいに使い、快適に過ごせるよう心配りをし合って暮らしていたのだ。
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2007-10-30
”江戸時代のアイドル”茶屋娘って?

最初は、番茶を出すだけの店だったが、しだいに団子や餅を出し、さらには料理を食べさせる茶屋も登場する。
その茶屋にいて人気を呼んだのが、茶屋娘たちだ。
茶屋娘は、客に茶や菓子を給仕するのが仕事だったが、看板娘の意味もあった。
実際、美人の茶屋娘がいる茶屋は評判を呼び、多数の客を集めた。
お客は、看板娘にお茶を出してもらうと、その笑顔に参って菓子を頼み、さらにチップまで弾んでしまうというわけだ。
茶屋娘でもっとも有名だったのは、笠森おせんである。おせんは、谷中の笠森稲荷前にあった茶店、鍵屋の看板娘。
彼女は、まず唄にうたわれ、浮世絵のモデルとなり、ついには芝居のモデルにもなった。
この笠森おせんと柳屋お藤、蔦屋およしが、明和の三美人と呼ばれた。
ただし、彼女らのサービス行き届いていたというわけではない。
おせんの場合、農家の出身で、田舎くさいところがあったという。その素人くささが、かえって好感を呼んだのだ。
彼女らの人気の秘密は、隣のおねえさん的な、素朴な健康美だったのである。
逆にいえば、江戸の男たちも、玄人筋の女性には少し飽きがきていたのだろう。
吉原の太夫や花魁は化粧に二時間も費やすほど、化粧で顔を厚く塗り固めていた。
彼女らに代表されていた江戸の美人像が飽きられ素人っぽい美人がもてはやされたのである。
2007-10-30
吉原で遊ぶにはどれくらいお金がかかったか?

吉原で最高級の女性と遊ぼうと思ったら、現代では考えられないくらい高くついた。
吉原では、女性にランク付けがされていて、最高ランクは「太夫」である。
太夫と一緒に床に入るまでは、三回訪れる必要があった。初回はたんなる顔合わせ、次が裏を返す訪問で、三度目の訪問でようやく目的達成となる。
太夫を訪問する時は、他の芸者を上げなくてはならないし、太夫のお供にもチップをはずまなければならない。
一回目の訪問で30~40両かかるから、三回目の訪問でしめて90~120両かかった。
現代の価値で1両を八万円で換算すると720~960万円はかかったことになる。
そんな遊びを出来るのは、大名か豪商だけだが、彼らとてそんな遊びを長くはつづけられない。
大金を使って太夫と遊べるものはしだいに少なくなってしまい、その後、太夫はいなくなってしまった。
もちろん、吉原にあったのは、ハイランクの店ばかりではない。大衆店から格安店までそろっていた。
人々は財布の具合によって、遊ぶ店を選べたのだ。
一般に吉原の一番安いクラスの店では、400~600文(8000~12000円)ほどで遊べた。当時、腕のいい大工職人は、540文程度の日当だったというから、なんとかならないことはない値段だった。
さらに格安店もあり、吉原を取り巻く、お歯黒溝沿いの切り見世では、100文程度であそべた。
30分程度で酒も何もつかなかったがそんな店でも人気があった。
2007-10-29
なぜ徳川幕府は「長期安定政権」を築けたのか?

これほど長く徳川家による支配が続いたのは、初代家康から三代家光までの48年間にガッチリと支配体制を整えたためといえる。
まず、家康は織田信長や豊臣秀吉とは違い、天皇から征夷大将軍を拝命して、政治を委嘱されるという形をとった。鎌倉、室町時代と同様、伝統的な武家政権の形式が安定感を生み出したのだ。
さらに家康は、豊臣家を滅亡に追い込んで、徳川家の権威を確立した。
家康の跡を継いだ二代将軍秀忠と三代将軍家光は、外様大名をはじめとするあらゆる危険分子に統制の網をかけ、政権の安定化に成功する。諸大名に対しては「武家諸法度」を制定し、これに抵触した大名を次々と取り潰していった。
親藩であっても、一つ間違えば取り潰しという緊張感のなか、各大名たちは、徳川家に対して逆らうどころか、足を向けて寝る事もできなくなった。
朝廷に対しては政治活動を禁止して学問の世界へ押し込め、また寺院の権力も奪って、”葬式仏教”に専念させた。さらに、農民に対しては五人組制度を設け、相互監視させることで行動を取り締まり、キリシタン外国勢力には、禁教令や 鎖国で布教やその活動そのものを禁止した。
このように、開幕以来、半世紀にもわたり、一種の”恐怖政治”を課することで、徳川幕府は超安定政権を成立させたのだった。
2007-10-28
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