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江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


2007-11-30

唐人お吉が”牛乳の恩人”といわれるわけは?

伊豆下田の玉泉寺には「牛乳の碑」が建てられている。1962年(昭和37年)、伊豆を創業の地とする森永乳業が、「唐人お吉」のために建立したものである。当時、地元の人々からは白い目で見られた彼女だったが、乳業メーカーにとっては恩人ともいえる人物なのである。
幕末、アメリカ総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスは日米通商条約交渉の疲労から健康を損ねた。そのとき、ハリスに仕えていたお吉は、ハリスの牛乳を飲みたいという希望に応え、近在の農家から牛の乳を買い集め、ハリスに与えた。
当時の日本では、牛乳を飲むのは生血を吸うのと同じくらいのタブーであり、お吉の行動はひじょうに勇気のいることだった。
そのとき、ハリスの飲んだ牛乳の量は、15日間で九合八勺(約1,7リットル)。代金は1両3分88文だったという。こうして、お吉は、日本で始めて牛乳を購入した人物となった。
明治維新後、日本人にとっても、牛乳は貴重な栄養源となる。牛乳が全国に普及するなか、乳業は一大産業に発展していく。乳業メーカーにとって、日本人として初めて牛乳を購入したお吉は、まさに恩人といってもいい存在なのである。
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2007-11-30

「唐人お吉」に提示された”看護料”とは?

ペリー来航の3年後、1856年(安政3年)7月21日、アメリカ軍艦が下田に入港した。この軍艦には、日本駐在総領事のタウンゼント・ハリスと青年通訳のヘンリー・ヒュースケンが乗っていた。上陸したハリスは、柿崎村の玉泉寺を宿舎とし、その寺はそのままアメリカ領事となった。ハリスは、そこを基盤に下田奉行や幕府との交渉を開始する。
当時、ハリスは健康がすぐれなかった。そこで通訳のヒュースケンを通じて、幕府に「看護婦」の派遣を要求した。その要求に対して、日本側は”看護婦”という意味がよくわからず、男の要求を満たすための若い女性を求めていると勘違いする。
問い直すと、23歳だったヒュースケンは、両方を兼ねる女性を要求したので、その求めに応じて送り込まれたのが、17歳のお吉という美しい芸者だった。
そのお吉に提示された”看護料”は、なんと支度金25両に月額10両。当時の大工の手間賃が一ヶ月2両ほどだから、じつに並みの職人の五か月分という破格の報酬だった。
ただし、お吉は玉泉寺に三ヶ月しかいなかった。お吉に腫れ物ができたためで、彼女が最終的に受け取った報酬は、支度金を合わせて55両(75両だったとも)だったという。
なお、ハリスは敬虔なピューリタンであり、お吉との間に関係はなかったとみられる。もっとも、お吉は、その後「唐人お吉」と世間から白い目で見られ、辛い人生を送ることになった。

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2007-11-29

天草四郎が16歳でキリシタンを率いることができたのは?

江戸の初期の1630年代、九州地方は毎年のように凶作の見舞われ、餓死する者がたえなかった。にもかかわらず、年貢の取立ては厳しく、農民の不満は極限に達していた。加えて、天草、島原の農民は、キリシタン弾圧という迫害にも苦しんだ。
1637年(寛永14年)、農民たちは圧政と迫害に耐えかねてついに蜂起、キリシタン一揆が勃発する。その盟主の座についたのは、天草四郎という16歳の少年だった。小西行長の家臣の子にすぎなかった少年が、一揆の象徴となったのは、次のような宣教師の予言があったからである。
その予言では、1613年(慶長18年)の禁教令によって国外退去を命じられた宣教師マルコス・フェラロが残したもの。「当年より25年目に、美しい童子が現れ、応験天にあらたかに野山に白旗たなびき、諸人の頭に十字架をたて、東西に雲の焼くることあらん」。この予言によって、民衆たちは25年後の救世主の出現を待つようになった。
それからちょうど25年目に、遊学先の長崎から戻ってきたのが、天草四郎だった。伝えられるところによると、四郎は多くの農民の前で奇跡を行ったという。たとえば、彼が天を仰いで十字を切ると、一羽の白鳩が舞い降りて卵を産み、その中から天主の画像や経文が現れたという。おそらく、手品のようなトリックを使ったか、作り話だったのだろう。
しかし当時、こうした奇跡が宣伝されると、農民たちは四郎こそ救世主と信じ、宗教的な高揚感のなか、彼を象徴として一致団結し、幕府をさんざん苦しませたのだった。

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2007-11-28

帰国したジョン万次郎はその後どんな仕事に就いた?

土佐の漁夫だった万次郎が、出漁中に遭難したのは、まだ14歳のときのことだった
万次郎は、仲間とともに無人島に漂着、そこで半年近く生き延びたのち、アメリカの捕鯨船に救助された。他の大人たちは、寄港地のハワイで下ろされたが、万次郎は船長に気に入られ、本人の希望もあってアメリカ本土へ連れていかれた。
アメリカでは、船長夫婦にわが子同然に育てられ、英語、航海術、造船技術などを習得。優秀な船乗りになったが、故郷への思いを捨てきれず、8年後の1851年(嘉永4年)にアメリカをたち、当時の琉球に上陸した。
その後、鹿児島を経て長崎へ護送され、奉行所の取調べを受ける。従来なら鎖国の禁を破ったとして罪に問われてもおかしくなかったが、時代は大きく動いていた。万次郎が帰国したのはペリー来航の二年前のことであり、異国への関心が高まっていたのだ。
万次郎は許されたうえ、さらに語学力を買われ高知城下の教授館へ出仕する。坂本龍馬も、万次郎の世界観や知識に大きく影響されたとみられている。
やがて、黒船が来航して大騒ぎになると、万次郎は、通訳として直参旗本に取り立てられる。
故郷の地名に由来する「中浜」という姓を名乗るようになったのも、このときのこと。その後は、通訳や翻訳、軍艦操練所の教授などを務めた。
彼がもっとも華々しく活躍をしたのは、勝海舟ら幕府遣米使節の通弁主務として、咸臨丸で渡米したときである。帰国後は、鹿児島や土佐で教師として生活を送った。
ただし、万次郎は、通訳としては優秀だったが、英語の文献を日本語に訳すことは得意ではなかった。そのため、欧米の体系的な知識の移入が求められた明治維新以降は、目立った活躍をすることはできなかった。

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2007-11-27

絵島事件の陰にあった大奥の権力闘争とは?

大奥の最高実力者だった絵島が、大奥から追放されたのは、1714年(正徳4年)2月2日のことだった。
その数日前、絵島は月光院(七代家継の生母)の名代として、芝増上寺に参った後、木挽町(現在の銀座)の山村座で芝居見物を楽しんだ。そして、午後6時の門限ギリギリに帰り、門番に頼んで中へ入れてもらっていた。
当時、大奥の女性たちは、仕事で外出したついでに芝居見物や買い物をしたり、親族と会ったりしていた。門限までに帰れば、その程度の息抜きは大目にみられていたのだが、そのときに限って絵島はとがめられ、十数人の奥女中とともに追放処分となったのだ。
さらに、看板役者の生島新五郎が北町奉行所で拷問にかけられ、絵島との密通を自白する。絵島は頑強に否定したが、2人とも有罪とされ、絵島は信州高遠藩(長野県伊那市高遠)の藩主へのお預け、生島は三宅島へ遠島となった。と同時に、1500名もの関係者が処分された。
これが世にいう「絵島事件」だが、絵島が標的になった裏には、大奥での権力争いと大奥改革がからんでいたとみられる。
当時、大奥では、前将軍・家宣の正室だった天英院と七代家継の生母である月光院が対立し、権力争いを繰り広げていた。とくに、旧勢力である天英院派は、新興勢力の月光院派の追い落としを狙っていた。江島は月光院派だったため、旧勢力の標的となり、わずかなスキをつかれ追放されたとみられるのだ。
また当時、大奥は莫大な経費を食いつぶしていて、改革の必要性が指摘されていた。そこで幕閣らが絵島事件をでっちあげ、大奥の綱紀粛清をはかったとも考えられる。事実、この事件をきっかけに奥女中の数が減らされ、贅沢も厳しく規制されるようになった。

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2007-11-26

将軍の死後、側室たちはどうなった?

将軍のお手つきとなれば、女中も一躍側室身分である。将軍存命中は、高額の扶持と、正室や生母に次ぐ扱いを受けた。
問題は、将軍が死去してときである。彼女たちはもう大奥にはいられない。かといって、自由に暮らすことはできなかった。
彼女らは全員、大奥から桜田御用屋敷に移された。桜田御用屋敷は、大奥の御目見以上の女中が病気になったとき、療養する場であり、同時に側室の隠居場でもあった。別名、「比丘尼屋敷」といい、元側室たちはそこで余生を過ごした。
屋敷の別名とおり、彼女らは髪をおろして尼さん姿にさせられた。一人ひとりが亡き将軍の位牌を受け取り、院号をもらい、毎朝お経を唱えることになる。物質面での不自由はなく、大奥にいたときと同じだけの扶持をもらうことができた。
しかし、すでに年配の側室ならそれで十分だったかもしれないが、若い女性には酷な環境だった。彼女らは厳重な監視下に置かれ、外出もままならない。公認の外出日は1月10日の江戸城へのお年始登城、将軍の命日に芝・増上寺への参拝、将軍の正室へのご機嫌伺いくらいなものだった。
そのほかの外出には通行証が必要であり、簡単には外出できない仕組みになっていた。若い元側室の中には、悶々とした日々を送っていた者もいた。
彼女らが厳重な監視下に置かれたのは、別の男との間に子どもができることを幕府が恐れたからだ。とくに将軍没後、すぐに妊娠すれば、将軍の子かもしれないとなる。そんな面倒をなくすため、元側室たちを比丘尼屋敷で軟禁したのだった。

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2007-11-25

なぜ、江戸には女性が少なかったの?

小さな漁村だった江戸に幕府が置かれ、インフラ整備が進められると、江戸の人口は急増し始めた。江戸中期には人口が100万人に達し、当時としては世界一の大都市に成長していたとみられる。
江戸の人口構成の特徴は、男女比が極端にアンバランスだったことである。1721年(享保6年)の人口調査では、町方だけで男性が約32万3000人もいたのに対し、女性は約17万8000人しかいなかった。およそ女性一人に、男性二人弱である。
男女比がアンバランスになったのは、江戸へは、田舎から、単身で奉公や出稼ぎにくる男性が多かったからである。口減らしで江戸へ奉公に出されるのも、次男以下の男子が多かった。
また、江戸中期まで、農家の女の子が江戸へ出ることはほとんどなかった。女性には、せいぜい女中になるか、娼婦になるいくらいしか、働き口がなかったからである。
というわけで、周囲の農村から江戸に集まるのは、大半が男性で、自然と江戸の町は男の町となっていった。
これに、約50万人いた武家や寺関係も含めれば、圧倒的に男性が多かったというわけである。
ちなみに、男性が圧倒的に多いがゆえに求められたのが私娼で、江戸市中には、幕府公認の遊郭吉原のほか、数多くの岡場所(私娼街)があった。

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2007-11-24

江戸っ子の一日の労働時間はどれくらいだった?

「過労死」という言葉が国際的に知られるほど、働きすぎといわれる現在の日本人。では、そのご先祖にあたる江戸庶民たちは、一日何時間ぐらい働いていたのだろうか。
当時の生活の基本は、日の出とともに起き出して働き、日の入りとともに仕事を終えること。だから、大工や左官、鳶といった職人たちは、夏の間なら午前7時には現場へ行き、午後5時には引き揚げた。
その間には、昼休みに加えて午前10時と午後3時の休みもあったので、実質的な労働時間は8時間ぐらい。昼の短い冬になると、実労働時間は5空時間程度のものだったという。
しかも、当時は、ほとんどの場合が職住接近。通勤時間はほとんどかからなかった。さらに、天気が悪ければ、仕事は休みとなった 。今のサラリーマンよりも、ずっと急がず焦らず、のんびりと働いていたのである。
もっとも、いつものんびり働いていたわけではない。急ぎの場合は、労働時間が10時間以上ということもあった。そんなときは、手間賃が増額になったり、今でいう残業手当がついた。サービス残業は、当時の職人さんたちには考えられないことだった。
ただし、商家に住み込んでいる番頭や手代たちは、今でいえば”サラリーマン”にあたるだけに、職人ほどのんびりとはしていられなかった。朝7時から午後7時までの12時間労働が当たり前で、丁稚の間は暗いうちから起きて雑用をこなし、深夜まで後片付けや雑用をさせられた。一日に14から6時間も働かされるケースもあった。
一方、同じ商売人でも、天秤棒を担いで食品や日用品を売り歩く業者は、朝は早くても、売れ行きがよければ早仕舞いも可能だった。扱う商品にもよるが、昼過ぎには帰り支度をする業者がけっこう目立ったという。

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2007-11-23

破れば死罪も免れない江戸城の規制とは?

江戸時代、武士の仕事場は、各地にあったお城である。たとえば徳川家の旗本の多くは、番方として江戸城に出勤しなければならなかった。番方は、江戸城の宿直や警備を担うもので、そこには現代ビジネスマン社会に通じる就業規制があった。
1622年(元和8年)、江戸城内の服務規定が作られた。それによると「一ヶ所に集まって談笑してはならない」「書類を持ち出してはいけない」「チリを捨てたり便所以外のところで小便をしてはならない」「囲碁や将棋、相撲をしてはならない」などとある。
そんな規定のなかに、現代では厳しすぎてありえないものもあった。「落書きをしたら死罪」というものだ。もし、誰が書いたものかわからないときは、座敷当番に銀10枚の罰金が科せられた。
幕府が落書きの罪を過剰に重くしたのは、そこに体制批判の芽を見たからである。一つの落書きを放置すれば、どんどん落書きが増えていき、何を書かれるかわかったものではない。そこで、悪い芽の出る余地をなくすため、厳罰を科したのだ。
なお、番方は昼夜三交代で、朝晩は午前8時、夕番は午前10時、宿直は午後4時からの勤務だった。自分勝手な欠勤や早退は許されず、交代時間の前に帰った場合はその年の知行召し上げ、無断欠勤は改易された。
幕府は、遅刻や欠勤にひじょうに厳しかったのである。

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2007-11-21

長谷川平蔵が考案した犯罪防止システムとは?

池波正太郎の「鬼平犯科帳」の主人公として知られる長谷川平蔵。ご存知のように、実在の人物である。
若い頃は遊里に出入りし、放蕩生活を送ったようだが、役人になると真面目に働き、1787年(天明7年)9月、43歳で火付盗賊改方となった。
「鬼の平蔵」と呼ばれたというのは池波の創作だが、江戸市中に張りめぐらした情報網を駆使して、数々の事件の解決に当たったことは事実である。
また、寛政の改革の際には、犯罪者の更正施設である「人足寄場」の建設を計画、石川島(現在の中央区佃二丁目)に建設した。この施設は、日本独自の近代的監獄制度のルーツとなるが、当時、平蔵は老中の松平定信との折り合いが悪く、運営資金の捻出はずいぶん苦労したという。
平蔵は、幕府から資金を借りて、銭相場に投資。それで稼いだ利益を人足寄場の運営費に回すことでやり繰りした。また、大名屋敷の跡地を資材置き場などにして商人に貸し出し、その借地代も運営費に回した。当時の役人としては、なんとも型破りな資金調達法だった。
ちなみに、この人足寄場は、無宿者や服役を終えた軽犯罪人を3年間収容して、職業訓練を実施、大工や左官などの技術を持つものには、それらの技術をさらに磨かせ、手に職のない者には軽作業や土木工事を教えた。
また、労働に対して手当てを支給、その一部を強制的に貯金させ、出所時の元手にさせた。
このような犯罪者を教育し、更正させようという発送は、当時としては画期的なものだった。

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江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

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