江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2007-12-30
高い枕があえて使われるようになったわけとは?

ところが、中期になると、括り枕が使われるようになり、代わって高さのある木枕が登場する。その木枕に代わって、やがて箱枕が主流となる。
箱枕は、箱型の木枕の上に括り枕を乗せたもの。括り枕がずれ落ちないよう、木枕と括り枕が紐で結び付けてあった。
木枕にしろ、箱枕にしろ、ずいぶんと高い枕なので、首を痛めそうな感じもする。そんないかにも寝ずらそうな枕で寝るようになったのは、髪型に大きな変化が起きたからである。
江戸初期の髪型は単純だった。女性は無造作な垂れ髪か、それを後ろで軽く結ぶくらい。男性も、武士にしろ町人にしろ、凝った髪型をしていなかった。そのため、低い括り枕でも十分だった。
江戸中期になると、男女ともおしゃれを覚え、髪型にも凝りはじめる。女性の髪形はまず後ろに張り出し、明和年間には今度は左右に張り出すようになる。せっかく結い上げた髪形が台無しになるからだ。
男性も同様で、髷に凝りはじめると、低い枕では髪型を崩してしまうため、男女とも高い枕を必要とするようになったのだ。その需要に応じたのが箱枕であり、寝やすさよりもヘアスタイルを優先にした江戸のおしゃれ革命の産物といえた。
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2007-12-29
江戸の庶民はどんな布団で寝ていた?

夜着は、着物よりひと回り大きく、襟や広袖がついていた、綿入れ仕立ての「着る物」だ。江戸の庶民は、この夜着を着て、敷き布団の上に寝ていたのだ。
夜着は襟付きだったので、首まで引き寄せると、風が入りにくく、今の掛け布団以上に温かかったようだ。夏になると、夜着ではさすがに暑いので、夜着を小ぶりにした掻巻(かいまき)を掛けて寝てた。
一方、敷き布団もピンからキリまであって、長屋の住民はたいてい煎餅布団である。豊かな商人になると、綿をたっぷり入れた分厚い敷き布団を使っていた。
江戸庶民にとって、布団とは敷き布団のみを意味していたが、上方では様子が違い、元禄のころには、すでに掛け布団をかけて寝ていた。
松尾芭蕉の弟子・服部嵐雪は、元禄年間に「ふとん着てねたる姿や東山」という句を残している。上方の庶民もそれ以前は、夜着のようなものを着て寝ていたが、元禄のころには掛け布団で寝ていたというわけだ。
嵐雪は江戸の人であり、夜着を着て寝るのが当然と思っていたから、布団を掛けて寝る姿が珍しく、この句を詠んだと思われる。
2007-12-28
化粧の”ハウツウ書”がもうすでにあったって本当?

当時、ポイントとされたのは、肌の白さときめ細やかさ、髪の生え際の美しさとその艶、口もと(小さいほどいい)とその色(赤いほどいい)などである。
そこで、彼女たちは、まず肌の白さときめ細やかさを維持するため、銭湯へ行くと、糠で肌を磨き上げた。京都には糠で柱を磨く「磨き屋」という職業が残っている。磨き屋さんにかかると、古い町屋の黒い柱も新築同様にピカピカになる。それほど、糠の”美白効果”は高いのだ。
また、江戸時代の化粧水として有名だったのは、「花の露」と「江戸の水」。
「花の露」は野バラから露を抽出したもので、「江戸の水」は『浮世風呂』などの戯作で知られる式亭三馬の化粧品から売り出されていた。白粉がはげず、化粧がよくのるとして人気を集めた。
江戸の女性は、今でいう”顔パック”もしていた。米のとぎ汁を漉して天日に干し、それを顔に塗ったまま寝て、翌朝洗い落とす。すると、「顔が白玉のように白くなる」といわれた。
口もとを彩る口紅は、紅花から作られていたが、なかでも冬の寒い丑の日に作られた紅の色がもっとも美しいとされ、女性たちは競って最良の口紅を求めた。
なお、化粧の”ハウツウ書”もあって、『都風俗化粧伝』という大ロングセラーには、さまざまな化粧法が紹介されるとともに、「本当の美しさは内面からにじみ出る」と、現在のハウツウ書と同じようなことが書かれていた。
2007-12-27
女性の髪形はいつ「垂れ髪」から「髷(まげ)」に変った?

それまでは、ひたすら長く垂らすのが一般的だった。百人一首に描かれた平安女性たちのように、江戸初期の女性も、髪を自分の背丈より長く伸ばし、その長さと美しさを自慢していたのだ。
しかし、長い髪では体を動かすのに何かと不便である。そこで、まず家事に忙しい庶民の女性たちが、髪を結んだり、布で包むようになった。
それでも、機敏に働く必要のない江戸城の大奥の女性たちは、長い垂れ髪にこだわっていた。ところが、1657年(明暦3年)の明暦の大火で江戸城が類焼。逃げまどう女性たちの長い垂れ髪に火の粉がふりかかり、多くの女性が髪を焦がしたり、火傷した。これをきっかけに、プライドの高い大奥の女性たちも、町民を見習って、髪を結い上げるようになった。
2007-12-26
関所で厳しく取り締まられた「出女」とは?

「入り鉄砲に出女」という言葉があったように、とりわけ江戸へ向かう鉄砲と、江戸から下る女性は厳重に取り調べられた。
入り鉄砲を取り締まったのは、いうまでもなく、反乱や謀反を予防するためである。では、もう一方の「出女」は、なぜ厳しくとりしまられたのだろうか。これは、大名の妻子の江戸脱出を許さないためである。
家康は幕府を開くと、大名の妻子を人質として江戸に住まわせるようにした。大名たちに、江戸城下に屋敷を与え、妻子を江戸に住まわせることを制度化したのだ。妻子が江戸にいれば、諸大名はまず謀叛を企てることができない。
しかし、この制度も、妻子が江戸から脱出すれば、意味がなくなる。そこで幕府は、妻の江戸脱出を防ぐため、関所で通行手形を持っている女性でも、厳しく取り調べたのである。
関所によっては、「改め婆」と呼ばれる老女がいて、男装していないかどうかも含めて厳重にチェックしていた。
2007-12-25
なぜ、江戸には女性が少なかったの?

江戸の人口構成の特徴は、男女比が極端にアンバランスだったことである。1721年(享保6年)の人口調査では、町方だけで男性が約32万3000人もいたのに対し、女性は約17万8000人しかいなかった。およそ女性1人に、男性2人弱である。
男女比がアンバランスになったのは、江戸には田舎から、単身で奉公や出稼ぎにくる男性が多かったからである。口減らしで江戸へ奉公に出されるのも、次男以下の男子が多かった。
また、江戸中期まで、農家の女の子が江戸へ出ることはほとんどなかった。女性には、せいぜい女中になるか、娼婦になるくらいしか、働き口がなかったからである。
というわけで、周囲の農村から江戸に集まるのは、大半が男性で、自然と江戸は男の町となっていった。
これに、約50万人いた武家や寺社関係も含めれば、圧倒的に男性が多かったというわけである。ちなみに、男性が圧倒的に多いがゆえに求められたのが私娼で、江戸市中には、幕府公認の遊郭吉原のほか、数多くの岡場所(私娼街)があった。
2007-12-24
電気のない中、どうやって「夜更かし」していたの?

行灯には、燃料となる油が必要だが、使われたのはおもに菜種油である。安土桃山時代から、菜種が盛んに栽培されるようになり、江戸時代になると庶民の手にも届く値段になった。それを食用だけでなく、照明用にも使うようになったのだ。
もっとも、行灯の明かりは暗く、せいぜい1~2ワット程度。蝋燭のほうが何倍も明るかった。それでも、人々は行灯を使ったのは、当時、蝋燭が1本200文と非常に高価だったからだ。
一方、行灯用の菜種油は、1808年(文化5年)の時点で、1合が41文。1合の油があれば、真夜中近くまで起きていても、2~3日間は使えた。
貧しい人たちは、菜種油の代わりに、イワシなどの魚油を使うことが多かった。菜種油は蝋燭よりは安かったとはいえ、菜種油1升で米2升買えるといわれた程度の値段はした。そこで庶民は、その半額程度で買える魚油を愛用したのだ。
もっとも、魚油には悪臭が漂うという大きな欠点があった。長時間灯していると、部屋中に生臭いにおいが漂い、気分が悪くなった。結局、魚油では、あまり夜更かしはできなかったようである。
2007-12-23
江戸時代、男女混浴でも平気だった?

江戸初期の湯屋は、現在の湯船につかる風呂ではなく、サウナのような蒸し風呂だった。お湯につかる湯屋が登場するのは、中期以降のことだ。
江戸時代の湯屋の特徴の一つは、男女混浴が多かったことである。町娘は男の裸を見ても平気だったし、逆に男のほうも欲情することはなかった。男女混浴は当たり前のことと、受け止められていたのだ。
ところが、寛政の改革期などには、男女混浴では風紀が乱れるとされ、1791年(寛政3年)には男女別に浴場が分けられた。それでも、男女混浴を続ける湯屋もあり、また改革が失敗に終わると、元に戻ってしまった。
湯屋の入浴方法は、現代の銭湯とさほど変らない。板の間の脱衣場で服を脱ぎ、洗い場で体を洗い、そのあと浴槽に入る。浴槽の入り口には、石榴口という板壁があった。
浴槽内は、明かりが一本灯っているだけで暗かった。そのため、人とぶつからないよう、新たに入ってくる者は「ごめんなさい」「冷え物でござい」などと声をかけた。
「冷え物でござい」というのは、「自分の体が冷たくてごめんなさい」という意味だ。浴槽から出ると上がり湯をかけて、板の間で体を拭いた。
男湯の二階には将棋も用意されていたし、茶菓子のサービスもあった。もちろん代金を払ってのことだが、そこでしばし、くつろぐことができた。
湯屋は朝早くから営業し、日没後2時間ほどで火を落とし、店じまいとした。火の用心の意味もあって、今の銭湯のように夜遅くまでは営業していなかった。
2007-12-22
表示がなくても料金がわかる吉原の謎とは?

現代では、「入浴料○○円」の看板や情報誌などから、おおよその値段がわかるようになっているが、江戸の吉原には値段表示のような野暮なシステムはなかった。
それでも、客は、どの店が高く、どの店が安いか、一目でわかるように工夫されていた。各店の格子の様子を見れば、おおよその値段がわかったのだ。
基本的に、格子の枡目が小さいほど高級店で、一番高級な「大見世」は、上から下まですべて格子になっていた。大見世にいるのは遊び代が2分以上の遊女ばかりで、現代のお金に換算すれば4万円が最低ラインだ。
中級ランクである「中見世」となると、格子の四分の一が素通しになっていた。そこなら2分から2朱、つまり4万円から1万円ほどで遊ぶことができた。
一番安い「下見世」は、格子の上半分が素通しになっていた。そこは1分以下(2万円以下)だ。
高級店ほど格子を多く使っていたのは、わざと中を見えにくくするため。格子の向こう側には遊女たちが座っていた。
安い店は彼女らの姿が見えやすく、高い店ははっきりとは見えない。ここでも、高級店ほど、客の妄想をかきたてるような仕組みになっていたというわけだ。
2007-12-21
江戸時代の”ラブホテル”ってどんなとこ?

江戸には、まず番茶を飲ませる「茶屋」が生まれた。その茶屋が料理を出す料理茶屋などさまざまに発展するなか、男女の逢い引き用に業態を特化したのが、出合茶屋である。
出合茶屋は、現代のケバケバしいラブホテルと違って、一見料理茶屋を装っていた。「料理処」という看板を掲げている店もあり、どの店も本当に食事を出した。中には、数奇屋風の二階建てになっていて、裏にも出入り口があった。部屋代、食事代を合わせた料金は、1分程度、今の2万円ほどだった。
出合茶屋は、神社や寺院の門前に多く、とくに上野の不忍の池周辺には、出合茶屋のメッカだった。現在、近くの湯島界隈にラブホテルが多いのは、その名残といえる。この地域の出合茶屋は、不忍の池には蓮が群生しているところから、「蓮の茶屋」あるいは「池の茶屋」と呼ばれた。
出合茶屋を利用したのは、おおむね人目をはばかるカップルである。未亡人と若い男、御殿女中と歌舞伎役者といった組み合わせだ。
当時、不義密通は重罪であり、死罪となる危険もあった。それを知ったうえで、彼らは命を懸けて出合茶屋を利用したのだ。
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