江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-01-31

江戸時代「以前」の江戸ってどんなところ?

「江戸」という言葉は、そもそも「江(川)の戸(入口)」のことで、河口部のことを指す。関東平野を流れる利根川の河口部と、武蔵野台地から海へ注ぐ平川(現在の日本橋川と神田川のルーツ)の河口地域という意味があったのだ。
その「江戸」が初めて文書に登場するのは、平安末期の1180年のこと。
源頼朝が安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)(現在の千葉県、茨城県)の軍勢を利根川左岸の国府台(こうのだい)(現在の千葉県市川市)に集結させた。平家側の有力武将だった江戸重長の領地を通過するためだった。
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には、頼朝が江戸氏の領地を無事に通過し、鎌倉へ至ったと記されている。つまり、鎌倉幕府成立以前、のちの江戸は、江戸氏の領地だったのである。
それから135年後の1315年、鎌倉の円覚寺の所領目録には、「江戸」という言葉が地名として現れる。その二年後の円覚寺の文書には「江戸郷内前嶋」という地名が見える。この江戸前嶋は、ほぼ現在の千代田区と中央区あたり。今の東京の中心は、鎌倉時代には円覚寺の所領だったのだ。
「江戸」の歴史が大きく変るのは、室町時代の1457年、太田道灌が江戸重長の子孫を駆逐して江戸城を築いてからである。
当時、道灌は京都や江戸の高僧に依頼し、江戸をアピールする詩文を書いてもらっているのだが、それによると・・・・・江戸湊は、陸悔とも交通でにぎわい、強固な江戸城と精鋭の軍隊で守られている。日比谷入江と江戸前嶋には、商船と漁船が群がり、信州(長野県)や越後(新潟県)、泉州(大阪府)からも物資が届き、毎日市が立っている。また、その南方は、品川まで人家がつづき、北方の浅草の浜には観音堂がそびえている・・・・・という具合だ。
これが”宣伝用”だったことを割り引いても、道灌が都市を建設し、江戸が大きく発展していたことは事実だろう。
しかし道灌が上杉氏に殺されると、江戸城は小田原を拠点としていた北条氏に乗っ取られる。北条支配時代の江戸は、房総の里見氏に対抗するための前線基地ではあったが、実態はひなびた漁村に逆戻りすることになった。
1590年、豊臣秀吉は、北条氏を滅ぼし、日本列島大半の統一を達成する。統一後、秀吉は、家康を関東に移封するが、その本拠地には北条氏の小田原ではなく、江戸を指定する。こうして、江戸は、家康の治める関東の中心地となり、彼が天下をとることによって、一躍日本の中心になったのだ。
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2008-01-30

夏になると江戸の人口が増えたのはなぜ?

享保年間には、何度か町人の人口調査が行われ、その数は約50万人だったことが明らかになっている。その調査結果を詳しく見ると、面白いことに気がつく。1725年(享保10年)の調査によると、4月と6月の江戸の人口は1万人もの差が生じるのである。6月のほうが1万人も多いのだ。
しかも、その増加分のほとんどは、女性である。つまり、冬の間、江戸の女性のうち約1万人がどこかへ消え、夏になると戻ってきたということになる。これは、江戸名物の一つだった火事と関係している。
江戸は、ご存知のように火事がひじょうに多い町であり、その発生は、空気が乾燥し、強風が吹き荒れる冬場に集中していた。そこで、家庭によっては、火事の多い冬の間は、妻や娘を江戸近郊の知人や縁者のところに避難させていたからである。そのために、冬の間は、江戸の女性人口が減少したのだ。
ちなみに、当時の江戸近郊とは、今の中野区や練馬区、江戸川区あたり。遠くても、現在の東京都多摩地区、埼玉県や神奈川県、千葉県あたりの東京寄りの地域である。

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2008-01-29

江戸の人口密度は世界一だったって本当?

なにしろ正確な人口統計があったわけではないから、断言はできないが、江戸の人口密度は、町人に限ると、世界一だった可能性が高い。
明治初期の町別人口を見ると、町人の街だった日本橋地域は、100坪あたりに平均9戸の家があり、30人ほどが暮らしていたと記録されている。単純計算でも、一戸あたり10坪強ということは、20畳ほどの広さに家族全員が暮らしていたことになる。実際、裏長屋では、六畳一間に4人以上が暮らしたケースが多く、人口密度はきわめて高かった。
これらの数字を人口密度に換算すると、日本橋地域は1平方キロあたり約9万人という大変な数字になる。
また、江戸全体のうち、69%を占めていたのが武家地で、15%が寺社関係、町人は、全体の16%に寄せ集められていた。町人人口は約50万人だったので、1平方キロ当たり人口密度は、およそ6万人となる。
町人の世界に限れば、江戸の人口密度は世界一だったといって間違いなさそうだ。

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2008-01-28

江戸時代に多くの大名家が取り潰されたのはなぜ?

江戸時代を通じ、幕府によって取り潰された大名の数はおよそ230にもおよぶ。その半分以上は、家康、秀忠、家光の三代に集中している・三代だけで126にのぼるのだ。
大名廃絶の理由は、大きく分けて三つあった。「世継ぎの不在」「武家諸法度違反」「幕府に対する謀叛嫌疑」である。もっとも多かったのは世継ぎのいないことだった。
幕府が大名を取り潰した狙いは、もちろん自らの政権安定と拡大である。そのため、とりわけ外様大名に対しては容赦なかった。
たとえば、1619年(元和(げんな)5年)には、安芸四九万国の福島正則が廃絶に追い込まれている。理由は、広島城を無断修築したというもの。正則は幕閣の実力者だった本多正純に二度も修築を申し入れ、本多は口頭で了承したといわれている。それなのに、二代秀忠は正式に許可していないと武家諸法度違反に問い、改易を命じたのだった。
また、1632年(寛永9年)には、老中の土井利勝が、将軍家光に対して謀叛を企てているという怪文書が出回った。幕府がその出所を調査したところ、肥後52万石藩主加藤忠宏の子であることが判明。これによって加藤家は取り潰しとなったが、この騒動はすべて幕府の策略だったとみられる。
福島家も加藤家も豊臣恩顧の外様大名であり、徳川家にとって存在的な脅威だった。
このように、三代家光までに、脅威となりかねない大名を次々と取り潰していくことによって、徳川家は磐石の基盤を築いたのだ。

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2008-01-27

日本は本当に「鎖国」していたといえるのか?

学校の日本史の授業では、江戸時代の重要な政策として「鎖国」について学ぶ。確かに、江戸幕府は、日本人の海外途渡航を禁止し、外交や貿易を制限した。
ただし、すべての国との交流を絶ったわけではない。そこで近年は、「本当に鎖国をしていたとはいえない」とする歴史学者も増えていてる。
たとえば、中国やオランダとは、江戸時代を通して貿易をしていた。学校の授業では、ことさらオランダとの貿易が強調されるが、最大の貿易相手は中国だったのだ。
長崎郊外には唐人屋敷(居住地)が設けられ、常時5000人以上の唐人が暮らしていた。今の長崎に、蛇踊り、しっぽく料理などの風習が色濃く残っているのはそのためだ。
また、対馬の宗氏は、朝鮮半島との貿易を独占していたし、薩摩の島津氏は琉球王国を通じて、中国やその他の国々と密貿易を行っていた。このように、鎖国下であっても、複数の国々との交流が続いていたのだ。
ちなみに、「鎖国」という言葉が初めて用いられたのは、江戸後期の1801年(享和元年)。蘭学者の志築忠雄が、日本を訪問したケンペルという人物が書いた『日本誌』の中の言葉を「鎖国」と訳したことに始まる。
しかも、「鎖国」という言葉が一般的に用いられるのは明治以降のことで、江戸時代にはほとんど使われていなかった。

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2008-01-26

吉良上野介はなぜみんなから嫌われていたのか?

江戸時代、「高家」と呼ばれたのは、いわゆる名門のこと。二代秀忠が、室町将軍家の縁故である石橋家、吉良家、今川家に三家を登用したことに始まる。仕事は幕府の儀礼や典礼を司ることだった。
その高家の一人、吉良上野介が、江戸城内で浅野内匠頭から斬りつけられたのは、1701年(元禄14年)にこと。上野介のイジメに耐えかねた内匠頭が、思い余って刃傷に及んだと伝えられる。
当時、上野介が部下をイジメ、賄賂を要求していたことは確かである。たとえば、上野介のイジメに参った亀井?親(これちか)の場合は、家老が機転をきかせて賄賂を持参。すると、翌日から上野介の態度がコロッと変ったというエピソードが残っている。
上野介がそれほど賄賂を欲しがったのは、高家のわりに収入が少なかったからである。吉良家は高家であっても、総石高はわずか4200石の旗本。5万3000石の赤穂藩主浅野内匠頭のほうが、はるかに多くの収入があった。ところが、浅野家の官位は従五位なのに、高家の吉良家は従四位。城持ち大名たちと対等以上の付き合いをするのは、財政的に大変な負担だったのだ。
そこで、上野介は、実子を米沢上杉家の養子に送り込み、毎年6000石もの援助を受けていたが、ただでさえ財政の厳しい上杉家からも快く思われていなかった。また、上野介は商人への未払い金も多く、町奉行へ訴えられたこともあった。
上野介は、一介の旗本にすぎないのに、「高家」らしくふるまうために出費がかさみ、賄賂を必要として、結局は自分の命を縮めることになったわけである。

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2008-01-25

名古屋城の金の鯱は本当に盗まれたのか?

「尾張名古屋は城でもつ」といわれるが、その名古屋城のシンボルといえば、金の鯱。
天守閣に飾られた金の鯱は、純金製である。慶長大判、小判1万7975両を引き延ばしたもので、二つの鯱を合わせれば32キロにもなる。合計190枚の鱗も、すべて金でできている。
そんなお宝が天守閣のてっぺんにおかれているのだから、盗人にしてみれば、このうえない獲物である。江戸時代には、その金の鱗が大泥棒にまんまと盗まれたという噂がまことしやかに囁かれた。
18世紀後半、柿木金助という大泥棒が大風の日に大凧に乗って、名古屋城の天守閣の屋根に舞い降り、鯱から金の鱗をはぎとったというのだ。
たしかに当時、柿木金助という大泥棒が美濃一帯を荒らしまわっていたことは事実である。だが、さすがの金助も、名古屋城の天守閣に上ることはできなかった。金助が忍び込んだのは、名古屋城本丸の土蔵であり、船を使って逃走したというのが真相だ。
金助はその後も泥棒稼業をつづけるが、やがて捕まり、1763年(宝暦13年)に磔(はりつけ)獄門となっている。
その直後から、金助が大凧に乗って、名古屋城の金の鯱を盗んだという噂が、広まり始めたのだ。
この噂をもとに、1782年(天明2年)には金助が登場する芝居が大坂で上演され、評判を呼んだ。やがては大凧に乗った金助の錦絵まで登場したので、名古屋城の金の鯱が盗まれたと信じた人は多かったと思われる。
のちに、鯱(その鱗)は本当に盗まれることになるが、それは明治以降、名古屋城から武士の姿が消えた後の話である。

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2008-01-24

吉宗の改革で一番損をした人々は?

1716年(享保元年)、紀州藩主だった徳川吉宗が八代将軍に就任した。吉宗は就任まもなく、財政再建を中心に幕政改革に着手。そして、先例にとらわれない改革を次々と実施し、みごと傾いた財政を立て直した。
吉宗は「幕府中興の祖」と呼ばれ、享保の改革は、のちの寛政の改革や天保の改革のモデルとなった。しかし、幕府財政が立ち直る一方で、この改革は貧しい農民をいっそう苦しめることになった。
たとえば、改革以前、年貢率は、その年の米の作柄のよって決定されていた。ところが、吉宗は、豊作凶作にかかわらず、一定額を徴収する「定免(じょうめん)法」を採用した。これによって、幕府の財政は安定したが、農民にとっては、凶作でも年貢が減免されないので、ひじょうに大きな負担となった。
また、この時期、新田開発が盛んに行われたが、開発された土地の大半は、もとは農民たちの共有地だった。農民たちは、そこから草肥や薪、山の幸などを調達していたのだが、新田開発によってそうした恩恵をうけられなくなった。
さらに吉宗は、それまでは低く抑えられていた畑の租税を重くし、税が免除されていた河川敷の土地にも課税した。
吉宗以前の家宣・家継時代の年貢は、平均で収穫の27.6%程度だったのに、吉宗時代には5割にもなった。年貢がおよそ2倍となっては、ただでさえ苦しい農民の暮らしはいよいよ苦しくなる。
実際、不満を募らせた農民一揆が増加し、凶作になると飢えた親子による子殺しなどが相次ぎ、前途のように、享保の改革以降、日本の人口はほとんど増えなくなってしまった。

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2008-01-23

江戸時代のベストセラー本とは?

江戸時代には出版文化が発達し、数々のベストセラーが生まれた。当初は上方でベストセラーが誕生し江戸後半には江戸でもベストセラーが生まれた。
まず、元禄時代(1688~1703年)に上方で流行ったのは、浮世草子といわれる町人の生活や風俗を描いた小説。そのはじまりは、井原西鶴の『好色一代男』である。西鶴は、ほかにも『好色五人女』『日本永代蔵』などの作品を残している。
江戸中期になると、江戸でも、ベストセラーが誕生する。その一号は、恋川春町の『金々先生栄花夢』。
この小説は江戸の黄表紙(きびょうし)のはじまりでもあった。黄表紙は、表紙が黄色であるからついた名で、洒落と風刺のきいたアダルトな読み物だった。山東京伝の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』も、黄表紙ベストセラーの一つだ。
洒落本といわれる遊里小説も人気を博した。やがて、黄表紙と洒落本は、当時の取り締まりの対象となり、代わって滑稽本と人情本が登場する。
滑稽本は、庶民の暮らしを笑いをまじえて描いたもので、式亭三馬の『浮世床』が代表格。男女の恋愛を描いたもので、為永春水(ためながしゅんすい)の『春色梅児誉(しゅんしょくうめごよみ)』がよく知られる。その為永春永も、天保の改革で取り締まりにあう。
以上のようなタイプの本は、挿絵も大きな要素をなしていたが、その一方で分を主体としたのが読本である。上田秋成の『雨月物語』、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は、今なお読みつがれている読本だ。
江戸時代には、親が子に読み聞かせる赤い表紙の絵本「赤本」も発達した。「桃太郎」「舌切り雀」「花咲爺」「かちかち山」といった現在では定番の昔話が定着したのも、赤本の普及以後のことである。

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2008-01-22

武器が禁止されていた農民は一揆のときどうやって戦った?

1558年(天正16年)、豊臣秀吉は刀狩を行い、農民から武器を取り上げた。刀や脇差し、槍、鉄砲などを提出させたのだ。しかし、農家一軒一軒を隅々まで調べられるわけもなく、隠そうと思えば、いくらでも隠せた。そのため、江戸時代になってからも、幕府は何度か農民の帯刀規制を行っている。それでも、農家から武器を完全に取り上げることはできなかった。
とはいえ、農民も農民で、一揆の際に鉄砲や弓矢を使うことは”自主規制”していた。仮に、鉄砲や弓矢を使えば、幕府や藩主の鎮圧軍に総攻撃を受ける。日頃から戦闘訓練している武士に、素人が武器で刃向かうことの無謀さはよくわかっていた。
そのかわり、農民は農民らしく、斧や鎌、木槌などを手に、筵(むしろ)旗を押し立てて戦った。何十人、何百人という農民が団結し、木槌や丸太で叩けばたいていの建物は壊れる。とくに、江戸中期以降、代官所や豪商、豪農の打ちこわしが多くなるが、そこでも木槌や丸太、石などが農民の”武器”になった。
ちなみに、農村に残っていた膨大な武器がほぼ完全に没収されたのは、第二次世界大戦後のことである。占領軍によって鉄砲等所持禁止が施行され、その後、警察が徹底調査することで、全国から100万以上の刀剣が没収された。

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江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

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