江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-02-29

”天下泰平”なのに人口が増えなかった理由は?

江戸時代の調査によれば、武士階級を除いた人口は、全国で約2600万人だった。その後、幕末まで大きな変動もなく、推移している。
江戸時代は”天下泰平”の世の中であり、国民の多くが巻き込まれるような戦争は起きていない。だから、人口が増えても不思議ではなかった。それなのに、人口がほとんど増えなかったのは、間引きと長子相続が確立したためだったと考えられている。
まず、間引きは、農村では、時代を通じて行われていた。当時、7歳までは神の子と考えられ、いつでも神にお返しできると信じられていた。だから、間引きは「子返し」とも呼ばれ、意外に簡単に行われ、罪の意識もほとんど伴わなかった。
また、幕府は、1673年(延宝元年)に分地制限令を発する。土地を相続する際、多数の子どもで分けると、農地が細分化し、年貢収入が安定しなくなることを警戒したのだ。これによって、農村では長子相続が確立していく。
以降、長男意外は、いっそう「子返し」の対象になりやすくなった。また、「口減らし」といって、次男以下の子どもを奉公へ出すことが多くなった。奉公に出された子どもたちは、朝から深夜まで働かせられて、体を壊し、病死することが少なくなかった。
つまり、長男を除く子どもたちの多くが早死にしたり、子どもを持てない体になって、それが人口増加を抑制することにつながったとみられている。
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2008-02-28

小判はどのようにつくられていた?

「いつもにこにこ現金払い」というときの「現金」は、江戸時代に発行されていた金貨に由来する言葉。その金貨は、1601年(慶長6年)徳川家康が後藤家に造らせた慶長小判に始まり、小判だけで江戸時代に10種も発行された。
その小判の造り方は、まず金と銀の精錬から始まる。精錬した金と銀を規定の比率でまぜ、棹金(さおきん)が造られた。金貨といっても、銀もまぜられていたのである。
この棹金を鉄槌で叩くと、薄く延びる。延ばしたものは「延金(のしきん)」と呼ばれ、適当な大きさの小片に切り分けられた。小片の重さを量って規定量を確認すると、再び打ち延ばし、小判の形に整える。その後、小判型の鉄床に一枚ずつのせ、表裏がなめらかになるように槌で打つ。
さらに、極印(きわめいん)を打ってから、再び計量。重さに間違いのないことが確認されてから、表裏にタガネで俵目がつけられた。最後に色づけをすれば、完成である。
ただし、色づけの作業には、相当の手間がかかった。まず、小判に砂をつけ、一枚ずつ縄たわしで丹念に磨く。特殊な薬品を塗って炭で焼いてから、塩をつけてこすり、水洗いをする。こうした作業を何度か繰り返すと、小判は初めて黄金色に輝いた。
以上のような作業は分業化され、それぞれの工程を担当する職人たちの流れ作業によって小判は造られていた。

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2008-02-27

借金を踏み倒された金貸したちの運命は?

江戸時代、幕府による「棄損(きえん)令」が二度だされている。一度目は、寛政の改革時の1789年(寛政元年)に発せられ、5年以上前の借金を棒引きし、それ以降は金利が下げられた。二度目は、1843年(天保14年)、天保の改革の際に発せられ、未払い債権をすべて無利子とし元金は原則として20年賦返済となった。
といっても、すべての借金を棒引きにしたのではなく、対象としたのは、札差が旗本と御家人にかしていた分だけだった。当然ながら、旗本や御家人には「夢ではないか」と小躍りした者が多数いたほど歓迎された。
一方、金を貸し付けた札差にとっては、まさしく悪夢だった。札差は、もとは旗本や御家人に支給される米の仲介業者であり、浅草蔵前に店を出し、仲介手数料を取るとともに、給米を担保に金を貸していた。その貸付金や利子がチャラになったのだからたまらない。
寛政の改革時には、総額120万両(約960億円)もの借金が帳消しになったという。その数日後、28人の札差が経営を維持できないと訴えたが、その程度で、お触れが撤回されるわけがなかった。
その後、札差には、経営難から閉店に追い込まれる者もあり、幕府も、5万数千両の資金を用意して札差救済に乗り出したが、120万両という総額を考えると焼け石に水だった。
さらに、それから50年ほど後の天保の改革時の棄損令は、借金棒引きではなかったものの、無利子の20年返済ということは実質的には踏み倒しだった。やはり、札差には閉店に追い込まれる者が少なくなかった。
その後、幕府から、借金の返済についての訴訟は受理しないので、当事者間で解決するようお達しが出ると、札差には、借金を返さない武士の馬や駕籠にすがりつき、直訴する者も現れた。
江戸時代後半は、商人が力をつけていたとはいえ、所詮は武家の社会。幕府が強権をふるえば、町人である彼らにできる抵抗は、その程度のものだった。

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2008-02-26

年貢のない商人や職人は、どんな税金を納めていた?

江戸時代の”税金”といえば、まずは年貢米である。農民は、その年の収穫した米の中から年貢を納めなければならなかった。それが幕府や藩の収入源になっていた。
では、年貢のない商人や職人は税金を払っていなかったのかといえば、世の中それほど甘くはない。税金に似たものとして、冥加金(みょうがきん)、運上金、御用金などを負担していた。
冥加金は、当初は、幕府や藩から営業を公認されたことに対する献金のようなものだった。しだいに率が決められ、毎年納めるようになって、税金化した。
運上金は、商工業に限らず、運輸業、漁業、狩猟、鉱山業、醸造業など、あらゆる業種に対して、収益の中から一定の割合で収めさせたもの。
たとえば、元禄時代には、造り酒屋に対して「酒に酔って騒ぎを起こすものが増えるのは遺憾。運上金を上乗せし、現在の酒価格の5割増しで売れ」というお達しが出され、酒価格に5割もの運上金が課されたことがある。
御用金は、幕府や諸藩が財政難を補うために臨時に徴収する税金。これらを合わせると、商工業者もかなりの税金を納めていた。
しかし、裏長屋に住む庶民たちは、まったく税金を払っていなかった。ただし、納税しないということは、市民権も与えられていないということであり、町役の選挙の投票権はなかったし、祭りや公式行事にも正式参加することもできなかった。

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2008-02-25

江戸時代の庶民の借金事情とは?

江戸時代庶民は急にお金が入り用なときは、質屋を利用した。
質屋の歴史は古く、そのルーツは奈良時代からあるとみられるが、急速に増えたのは、貨幣経済が庶民生活まで浸透した江戸時代からである。1723年(享保8年)、江戸に質屋組合ができたときには、江戸だけで2731軒もあった。
質草は何でもよかった。質屋の看板は、将棋の駒をもじったものが多く、これは「歩でも金になる」とシャレたもの。借りれる相場は、たとえば青梅縞の羽織一枚で金2分3朱、木綿立縞袷羽織(あわせばおり)一枚が金1分3朱程度で、預かり期間は三ヶ月だった。
江戸時代の貨幣価値が現代の何円に当たるかは、年代によっても異なるので難しいが、一般的には、金1両が6万円から10万円程度とされている。金1両を8万円として計算する、金2分3朱は5~6万円、金1分3朱は3万円ぐらいになる。
利息も時代によって異なり、享保のころで1両(約8万円)につき、一ヶ月銀1匁6分(約2200円)、100文(2000円)につき(80円)となっていた。天保年間になると利息が下り、1両で一ヶ月800円、100文で20円ほどだった。
質屋を利用するのは、もっぱら庶民だったが、大名を相手の金貸しもたくさんいた。大名に金を貸すのは豪商で、大名と呼ばれる者で借金のない者はいなかったといわれる。
一万石以下の旗本や御家人に金を貸したのは、浅草蔵前の札差である。札差は、旗本、御家人の代理として、禄高に応じた米を受け取り、委託販売する業者。利息は一ヶ月で1%ほどだった。

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2008-02-23

日本で始めての”国立病院”ってどんなところ?

『雨月物語』で有名な上田秋成は、その書を出版する前の1771(明和8年)、38歳のとき、火事で焼き出された。生活に困った彼は、一時期、医者に”転職”したことがある。
江戸時代には、医者の国家試験も免許もなく、誰でも開業できた。修行といっても、医者に弟子入りし、見よう見まねで覚えるだけである。上田秋成も二年ほど修行したのち、開業。しかし、疱瘡(ほうそう)の子供を治せなくて、親に恨まれ、夜逃げしたといわれる。
江戸時代の医者には、幕府の御典医、各藩のお抱え藩医、それに町医者があった。人数的には町医者がもっとも、多かったがひと言に医者といっても業態はさまざま。さらに、腕もさまざまで、名医から藪医者までそろっていた。しかし、どの医者にかかっても、診察代や薬代はべらぼうに高く、庶民には縁遠い存在だった。
そんな医療体制のなかで特筆すべきは、1722年(享保7年)に小石川養生所が設置されたこと。町医者の目安箱投書がきっかけで設けられ、当初は常勤の医師が2名、その他に夜間救急医1名、非常勤の医師が2名が勤務した。”国立病院”としては、なんとも頼りなかったが、極貧の病人を対象として、診察料は無料だった。
その後、常勤の医師が5名になったものの、予算が少ないことから、苦しい運営が続き、最終的には幕府の医師派遣を中止し、町医者を雇うようになった。それでも、庶民にとっては頼れる病院として明治初期まで存在しつづけた。
江戸時代の医療体制は、決して満足できるものではなかったが、洋の東西を見ても、当時の医療体制は、どの国もその程度だった。

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2008-02-22

医者にかかるにはどのくらいのお金がひつようだった?

現在、日本の診療費は、問診いくら、○○の検査いくら、△△の注射いくらというように細かく定められている。診療費は、それらを合計して算出され、実際には結構な額になっていても、健康保険のおかげで、風邪や腹痛程度なら患者負担は少なくてすむ。
しかし、健康保険に加入していなかったり、健康保険対象外の治療を受けると、高額の診療費を支払わなければならない。
江戸時代には、もちろん健康保険制度はなかった。そればかりか、診察料という考え方すらなかった。医者は慈悲をほどこすという考えが基本で、本来、無償であたるのが当然とされていた。しかし、完全なボランティアでは、医者の暮らしが成り立たない。そこで、患者の懐具合に応じて、医者に謝礼を渡すようになった。その謝礼は「薬礼」と呼ばれた。
ところが、時代が下ると、その薬礼にも相場が生まれてくる。当時、医者になる試験はなく、看板を掲げていれば誰でもなれたが、大別すると、幕府の御典医、諸藩の藩医、町医者の三種類があった。なかでも、もっとも薬礼の高かったのが、幕府の御典医である。
往診を頼むと、薬箱持ちに弁当持ちから、草履取り、乗り物をかつぐ者たちまで付いてきた。診察料に加え、それらのお付の者の日当まで、”患者負担”になったのである。風邪をこじらせた程度でも、現在の金銭で数十万円はしはらわなければならなかった。
では、町医者の薬礼が安かったといえば、そうでもない。よほどの慈悲の心をもつ医者でもなければ、一般に薬礼が安い医者ほど、腕は落ちるというのが常識だった。
そこそこ信頼のおける町医者にかかれば、一度の診察につき2万~4万円は必要だった。往診を頼むと、それに駕籠代が加算された。
そのため、医者にかかれるたのは、裕福な武家か商家だけ。裏長屋に住むような庶民にとって、医者はいないも同然だった。

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2008-02-21

「中条」と呼ばれたのはどんな仕事?

いつの時代にも、妊娠したが産みたくないという女性はいる。江戸時代にも、堕胎を専門とする医者がいて、「中条」と呼ばれていた。
「中条」という言葉は、豊臣秀吉の家臣で、産婦人科を専門とした中条帯刀(たてわき)に由来する。彼の流れをくむ”産婦人科医”を「中条流」と呼ぶようになり、やがて堕胎専門の医者をそう呼ぶようになったのだ。
江戸で中条が大繁盛したのは、中期以降のことである。江戸時代は、避妊の知識が皆無に等しく、望まぬ妊娠をする女性が少なくなかった。そこで、町のあちこちに中条ができ、女性たちはその門をくぐった。
中条は、なるべく人通りの少ない路地裏に開業し、訪れた女性が他人に顔を見られずに入れるようになっていた。また、待合室で、他の女性と顔を合わせなくてもいいようなシステムも整えられていた。
ただし、堕胎といっても、現在のような手術が行われたわけではない。ほとんどが強引に流産や死産させる荒っぽい方法で、母体を害することも少なくなかった。
なお、「中条」の読みは、当初は「なかじょう」だったが、しだいに「ちゅうじょう」と呼ばれるようになり、その読み方で一般に広まった。

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2008-02-20

火消しの給料はどれくらい?

町火消しは、ボランティアで火事を消していたわけではない。一人ひとりの火消しにきちんと給料が出ていた。江戸の町の費用で運営され、たとえ火事がなくともちゃんと支払われた。
ただし、その額はかなり安く、ヒラの火消しで一ヶ月に450~800文程度。1000文を2万円に換算すれば、9000円から1万6000円程度でしかない。
一番給料の高い纏(まとい)持ちでも2~3貫文、現代のお金に換算して4万円から6万円といったところだった。
ほかに役得として、湯屋や寄席、芝居がタダになることもあった。給料が安いのだから、町人たちからせもてものサービスといいったところだった。
そんな給料で暮らしていけたのは、彼らには鳶職という本職があったから。火消しはアルバイトのようなものにすぎなかったので、安月給でもやっていけたのだ。また、彼らが安月給でも火消し業に励んだのは、町火消しならではの魅力があったから。
町火消しが火事に恐れず飛び込んでいくさまは、江戸っ子気質に響くものがあり、彼らは一種のアイドル的存在でもあった。
とくに各組の組頭は、相撲力士に並ぶ、江戸の花形とされた。
花形として脚光を浴びる快感があったから、給料の安さはさほど大きな問題ではなかったのだ。

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2008-02-19

火事がないとき、町火消しはなにをしていた?

「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるが、その火事を消したのは町火消しである。
江戸初期には、まだ町火消し制度はなく、大名による大名火消し、旗本による定(じょう)火消ししかなかった。彼らは侍だけに町場の消防活動には消極的で、町人の住む町から火事が出ると、大火事になることがよくあった。
そこで、1718年(享保3年)、町奉行大岡忠相によって町火消しが組織された。
町火消しの活躍は目ざましく、やがては武家地の火事にも出動を認められる。ついには大名火消し、定火消しに代わって、火消しの地位を独占する。
そんな彼らは、火事がないとき、どうしていたのだろうか?
じつは、彼らの多くは鳶職だった。
当初は、商家の奉公人なども務めていたが、商人に火消しの仕事は荷が重かった。当時の火消し仕事は、今のような放水による消火でなく、燃えている家やその風下の家を打ち壊す破壊消防である。
商家の奉公人たちでは、その荒っぽい仕事に向かなかったのである。そこで、建物を扱うプロである鳶職が、火消しも担うようになったのだ。
そんなわけだから、火事のない日は、火消したちは本業の鳶職に精をだしていた。そして、いざ火事が出ると、仕事を中断し、現場へ急行したのだ。

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