江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-03-29

元禄時代、突然改名を迫られた人々とは?

「亀は万年、鶴は千年」といわれるように、古くから「鶴」という文字は縁起がいいとされてきた。江戸時代には「鶴」の漢字を使った人名や地名、屋号などが多数みられる。
ところが、元禄時代、この「鶴」という字がいっさい使えなくなったのだ。理由は、将軍の”鶴の一声”である。
『生類憐みの令』でおなじみの徳川綱吉が、自分の娘「鶴姫」を溺愛するあまり、庶民に「鶴」の字の使用を禁じたのだ。名づけて「鶴字法度」という。
突然のお触れに驚いたのが、全国のお鶴さんや鶴之丞さんや鶴之助さんたちである。すでに使っていた名前も、強制的に改名をさせられたからである。
『好色一代男』や『好色五人女』の作者として有名な井原西鶴も、この時期は「西鵬」と改めていたくらいだ。
京菓子の老舗「駿河屋」も、このお触れをきっかけに「鶴屋」から改名した。さらに、地名も改名を余儀なくされ、「鶴がダメなら、亀だ」と各地に亀のつく地名が急増した。
1704年(宝永元年)に鶴姫、1709年(宝永6年)に綱吉が亡くなって、「鶴」の使用が解禁され、人名や屋号を元に戻すケースが多かったが、地名の多くはそのまま残ることになった。
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2008-03-27

なぜ「赤穂の塩」が全国的に有名になったの?

赤穂といえば、江戸城松の廊下で、吉良上野介に対し刃傷におよんだ浅野内匠頭や赤穂浪士を思い出す人が多いだろう。その赤穂の名物といえば、「赤穂の塩」である。
雨が少なく、天候に恵まれた赤穂では古くから製塩が行われ、江戸時代中期には全国シェアの10%弱を誇っていたという。
小さな藩がそれほど高いシェアを占めていたのは、松の廊下事件の約50年前、赤穂では「入浜式塩田」という新しい製塩技術が編み出されていたからである。
吉良上野介が浅野内匠頭をいじめた理由も、内匠頭がその新技術を吉良に教えなかったからだとする説もある。
この新技術、当時としては画期的なものだった。それまでの製塩では、塩田を満潮面より高いところに作り、人力で海水を塩田に流しいれた後、天日にまかせて水分を蒸発させていた。
ところが、赤穂では、海のすぐそばに堤防を築き、堤防に切った溝から、干満の差を利用して海水を自然に流入させた。そして、日光や風などの自然現象を利用して水を蒸発させ、塩分濃度の高いかん水を作った。そのかん水を巨大な製塩釜で煮詰めて、塩を作ったのである。
こうすることで、製塩にかかる手間を省き、良質の塩を大量に作り出すことに成功した。
赤穂の塩は純白で質がよく、とくに京都や大坂で人気があった。

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2008-03-25

日本各地の商品はどうやって江戸に運ばれた?

現在、夜中に高速道路を走ると、大型トラックの車列にうずもれる。今では工業製品、農産物、魚介類、日常品などの運搬をトラックに頼っているが、江戸時代の輸送の中心は水運だった。
日本は、周囲を生みに囲まれ、天然の良港に恵まれた国。古くから海を利用した海運が発達してきた。
紀伊国屋文左衛門が、紀州や駿河からみかんや木材を江戸へ運び、巨万の富を築いたのも水運を利用したからだし、京都や大坂でにしんや昆布、鮭が大量に消費されたのも、北海道から松前船が運んできたからだった。
江戸時代、北海道へ渡り、松前を拠点に商業活動したのは近江商人たちである。彼らは、北海道で獲れた海産物を松前船によって大坂へと運んだ。
そのルートは、松前から日本海を下り、若狭湾の敦賀(福井県の港湾都市)から琵琶湖、淀川を経て京都や大坂へと至るコースと、日本海からグルッと長州を回り、瀬戸内海を経て大坂に至るコースの二つがあった。
また、海以外の水運ルートも利用されていた。たとえば、江戸と川越(現在の埼玉県川越市)は舟で結ばれていた。江戸初期、家康を祀った川越東照宮が焼失した際、再建資材を江戸から運んだことで、江戸と川越を結ぶ水運が開通。当初は、川越周辺の年貢米を江戸へ運び、帰りの畑作用の肥灰や糠を積むようになった。
その後、川越は物資の集散地に発展し、各地の炭やサツマイモなどの産物が集まるようになった。そして、それらの産物を船で江戸へと運んだのである。帰りは江戸から日用品や飼料などが川越へ到着し、その後、各地へ陸運で運ばれた。
江戸時代には、このような水運を利用した輸送が全国で行われ、川越のように商品の集荷場となった都市が発展していった。

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2008-03-24

船の難破で漂流した人の帰国後の人生とは?

江戸時代には、出漁中や運搬中に船が難破、漂流したという人が少なくなかった。彼らのなかには、外国船に救助されたり、他国に漂着するなどして、その後に帰国したケースもあった。ただし、帰国してからが大変で、鎖国の禁を犯したという理由から、半ば犯罪者のように扱われた。
帰国すると、まず奉行所か藩へ連行された。漂着した場所によって管轄する役所が違い、長崎に送還された漂流民と朝鮮半島から対馬に送られてきた漂流民は長崎奉行所へ、琉球から送り返された漂流民は薩摩藩、ロシアから送還された漂流民は江戸の町奉行所へ連行された。
連行先では、未決囚を収容する牢座敷へ入れられ、漂流の経緯などを詳しく取り調べられた。その取り調べだけで、じつに一年もかかることもあった。とくに、念入りに調べられたのは、キリシタンのなっていないかという点と、密貿易をおこなっていなかったかということ。これらの嫌疑が晴れたのち、ようやく故郷へ帰ることを許された。
だか、ようやく国許へ戻っても、再び藩でも取調べを受けることになった。そればかりか、藩外の移住は禁止され、漂流中のことは口外しないように命令され、海難被害者であるにもかかわらず、死ぬまで窮屈な日々を過ごさなければならなかった。。

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2008-03-22

シーボルトが国外へ持ち出そうとした禁制品とは?

江戸後期に来日し、長崎の出島で医者として働いたシーボルト。1824年(文政7年)には鳴滝塾を開いて西洋医学を教え、楠本滝と結婚して娘をもうけるなど、親日家としてもしられる医学者である。
ところが、来日の本当の目的は、日本の内情調査だった。現在では、ドイツのプロセイン政府から送り込まれたスパイだったというのが定説になっている。
事実、ドイツ人なのに、オランダ人と偽って入国。オランダ語の怪しさを指摘されると、「山地オランダ人だからだ」と答えている。海面より低い国オランダに山はないのに、ウソをついて日本への潜入に成功したのだ。そして、四年間の滞在後、帰国するシーボルトは日本地図を持ち出そうとして逮捕された。
1828年(文政11年)8月、長崎に停泊中のオランダ船が台風で破損し、修理が必要になった。その際、積荷が検査され、すでに積み込まれていたシーボルトの荷物から数多くの禁制品が発見されたのである。
その中でいちばん問題になったのは、伊能忠敬による『大日本沿海與地全図』などの地図類だった。
当時、幕府は日本地図の海外持ち出しを禁止していた。シーボルトに地図類を渡した幕府天文方兼御書物奉行の高橋景保は、二ヵ月後に逮捕され、翌年に獄死。シーボルトも、幕吏が長崎に出張して尋問を受けている。
ところが、禁制品の発見から尋問まで三ヶ月近い日数があったため、地図は押収されたものの、シーボルトは地図類を書き写し、まんまと持ち出すことに成功している。
ちなみに、シーボルトは、幕末にオランダの貿易会社顧問として再来日、開国騒動の中、対外交渉のための幕府顧問に就任している。

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2008-03-21

世界三大大火「明暦の大火」の被害とは?

火事とケンカは”江戸の華”というが、江戸時代の数多くの火事のなかでも、もっとも大きな被害を出したのは、明暦の大火である。
1657年(明暦3年)1月18日の午後、火の手が上がったのは、本妙寺(現在の本郷4丁目にあった)の境内だった。その日は朝から強い北西風が吹き、供養のため燃やした振り袖が、折からの強風にあおられて舞い上がり、それが火元となって、たちまち燃え広がった・・・・・と伝えられている。そこから、別名「振り袖火事」とも呼ばれている。
この時期、江戸では、前年の11月から80日間も雨が降らず、空気がカラカラに乾燥していた。しかも、当時の家屋は木と紙でできたいたうえ、とにかく密集していた。強風にあおられた炎は、たちまち本郷から湯島、駿河台、神田へと燃え広がった。
さらに、その火事が終息しかかったとき、今度は小石川の大番衆与力の宿舎から出火。それがおさまりかけたと思ったら、麹町の一般家屋からも火が出て、消防活動はまったく追いつかなくなった。それらの火が飛び火しながら燃え広がり、江戸市中は二日間に渡って燃えつづけた。ついには江戸城にも飛び火して、天守閣が焼け落ちている。
この火事によって、外堀以内のほぼ全域が焼失。大名屋敷や古くからの市街地を焼き尽くし、死者は資料によって数字は違うが、3~10万人にもおよんだ。江戸城の天守閣は、これ以降、再建されることはなかった。
この火災は、戦争や震災を除くと日本最大のもので、ロンドン大火(1666年)、ローマ大火(64年)と並ぶ世界三大火災のも数えられている。

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2008-03-20

江戸を襲った「安政の大地震」はどれくらいの規模?

ペリーの黒船来航から二年後の1855年(安政2年)10月2日、大地震が江戸を襲った。時刻は、夜の10時ごろ。突き上げるような衝撃があり、地面が激しく波打つように揺れたという。
江戸城の石垣が崩れ、本所や深川といった下町を中心に、家屋や神社、倉庫が倒壊。その下敷きになって多くの人が命を落とした。水戸藩改革派のリーダーだった藤田東湖も、小石川の藩邸の崩壊によって亡くなっている。
さらに、地震直後、各所で火の手があがり、この火災で焼死した人も少なくなかった。
吉原では、唯一の逃げ道だった大門近くで火災発生、1000人近い客と遊女が犠牲になった。
記録によると、町人だけでは死者約4300人、倒壊家屋1万戸の大きな被害が出たという。武家や社寺も含めれば、死者は1万人以上だったとみられる。
この地震、近年の研究で、震源地は千葉県の我孫子・柏付近。マグニチュード6・9規模の直下型地震だったこと明きらかになっている。
規模は、1923年(大正12年)の関東大震災(マグニチュード7・9)と比べるとはるかに小さかったが、直下型だったので江戸市中と周辺は壊滅的な打撃を受けた。とくに、夜の地震とあって、下町では、多くの人が狭い路地を逃げまどい、倒壊物にぶつかってケガを負う人がかなりの数にのぼったという。

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2008-03-18

悪評高い「天保の改革」の本当の中身とは?

天保年間、大飢饉で困窮した農民たちは、一揆や打ちこわしで不満を噴出させていた。また、大塩平八郎の乱が起き、日本近海に外国船が現れるなど社会不安の募る中、1839年(天保10年)、老中首座となったのが水野忠邦(ただくに)である。
忠邦はさっそく寛政の改革をモデルに財政再建をかかげて、改革をスタートさせる。まず忠邦は、高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させ、経済の自由化を進めようとした。しかし、寛政の改革と同じように、既存のシステムを崩したため、かえって経済は混乱し、景気はますます後退した。
また、都市が発達する中、農村から都市へ人口が流出、農業従事者が減って年貢米も減少傾向にあった。
そこで、忠邦は、寛政の改革のコピーのような政策をとる。都市在住の農村出身者を故郷に帰らせ、農業に従事させた。さらに、棄損令で旗本や御家人の借金を実質的に棒引きしたり、金利を下げて民衆を救おうとした。
一方で倹約令を発して、歌舞伎や寄席を弾圧。芝居小屋も当時江戸郊外だった浅草へ移転させて、庶民の反感を買った。
忠邦が実施したことのほぼすべては、寛政の改革のコピーであり、結局、経済を混乱させ、町人の支持を得られなかったことも、寛政の改革とまったく同じだった。
最終的には、忠邦が失脚へと追い込まれたのは、「上知(あげち)令」の失敗だった。忠邦は、江戸や大坂周辺にあった旗本や御家人の領地を、幕府の直轄地とすることで幕府の力を強め、江戸、大坂近郊の治安を安定させようと考えた。ところが、大名や旗本の大反対にあって、結局、上知令は実施すらできなかった。
その失政を反対派に攻撃され、忠邦は罷免されてしまう。その後、暴徒化した江戸庶民に、廷を襲撃されている。

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2008-03-17

松平定信の改革がうまくいかなかったのはなぜ?

浅間山の噴火が天明の大飢饉の引き金をひき、全国で打ち壊しや一揆が続発。しかし、老中の田沼意次は、ほとんど有効な対策が取れないまま、反田沼派に責任を追及され失脚する。その反田沼派の中心にいたのが、1787年(天明7年)、老中の跡を継いだ松平定信である。
徳川吉宗の孫の定信は、老中に就任すると、さっそく祖父が行った享保の改革をモデルに、緊縮財政、風紀取締りによって、幕府財政の再建に乗り出した。
まず、田沼時代の重商主義を改め、株仲間や専売制を廃止して、特権商人を抑えた。また、貨幣を改鋳して、高騰していた物価を抑えようとした。定信は、田沼の重商主義によって大店の独占が進み、農業や工業の生産基盤が破壊されたと考えていたのだ。
そこで、江戸へ流入していた農民たちを故郷へ帰し、農業に従事させようとしたり(旧里帰農令)、旗本や御家人を救うため、5年以上前の債務を破棄すると同時に、借金の利子を引き下げた(棄損令)。
しかし、幕府財政はかえって悪化する。大店による市場独占を解消できず、経済は混乱するばかりだった。
しかも、贅沢品を禁止したり、混浴や洒落本を禁止するなど、庶民の楽しみや娯楽も規制したので、定信に対する不満は大きく、改革とは名ばかりで、成果はほとんどあがらなかった。

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2008-03-16

貧乏旗本が人件費削減のためにやったこととは?

旗本や御家人の家計を圧迫した大きな要因は「人件費」である。旗本や御家人は、家禄に応じて、お供となる武家奉公人を雇わなければならなかったのだ。
そのお供の者らは中間(ちゅげん)や小者(こもの)と呼ばれ、住み込みか通いで働いていた。仕事の内容は、槍持、草履取、挟箱持、馬の口取、駕籠を担ぐ陸尺(ろくしゃく)など。中間、小者は、ご主人が公式の外出をするとき、お供としてそれぞれの仕事についた。100万石とりなら、槍持1人、草履取1人、挟箱持1人と決められていた。
彼らの給料は、幕末には1人に年3両程度。ただでさえ貧乏な旗本や御家人はしだいに給金を支払えなくなっていった。しかし、彼らを解雇すれば、いざ公式行事のときに困るし、だからといって雇いつづける余裕もない。そこで旗本、御家人たちは、今でいう”人材派遣業”に頼ることになった。
必要なときに「口入れ」「けんあい」「他人宿」などと呼ばれた人材斡旋業者からお供の者を調達したのだ。いわばパートであり、契約期間は一年、半年のこともあれば、日雇いのこともあった。
日雇いの中間・小者に雇われる者には、町人が多かった。町人であっても、その日ばかりは刀をさすことを許され、武士の端くれとして扱われた。

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