江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-06-30

大奥の奥女中たちのストレス発散イベントとは?

優雅なイメージの大奥も、じつはひじょうに気苦労の多い職場だった。実権を握っている「御年寄」のようなうるさ方が多いうえ、大部屋住まいの女中にはプライベートの時間もなかった。
そんな彼女たちが唯一、思い切りストレスを発散できる日があった。年の瀬も迫った大晦日の夜である。年越しの夜、大奥では、一風変った「新参舞」という行事が行われた。大奥のなかでも、新規召抱えになった御末という女中たちが、裸踊りを披露して、ドンチャン騒ぎをするというものだ。
ステージは、大奥御膳所の上段板の間。その近くに屏風を立てたり、布を引っ張ったりして目を隠し、御台所がそっとのぞけるようにしておく。そうして準備が整ったところで、木綿の湯巻き、頭に手拭い、手には柄杓やすりこぎなどの小道具を持った踊り子が登場。やがて、古参の御末がヤカンや桶の底を叩いて、お囃子をはじめると、踊り子たちが踊りだす、という趣向である。
たんなる新米イビリのように思えるが、刺青があるかどうか調べるためにはじまったとか、裸ではなく、ただ踊ったり歌ったりしているだけだったとか、このイベントの本来の目的や実態はよくわかっていない。ただ一つ、はっきりいえるのは、奥女中たちが、新米をイビリたくなるほど、ストレスをためこんでいたということだ。なにせ、大奥には男っ気がまるでないのどから、みんな欲求不満だったのである。そのため、節分のときに、年男が大奥にやってくると、それはたいへんな騒ぎになったという。
豆まきといっても、現代のように「鬼は~そと、福は~うち」といって豆をまくスタイルとは違う。年男は無言でひたすら豆をまいて帰ってしまうだけで、そのうえ豆まき係の男といえば、50歳くらいのオッサンだった。それでも、男は男なわけで、女中たちも最初はおとなしくしているが、そのうちちょっかいをだしはじめて、帰ろうとする年男を取り囲んでしまう。それから、布団でぐるぐるの簀巻きにして、歌を歌いながら胴上げするのだ。
この初老の年男をおもちゃにできる豆まきイベントは、大奥の奥女中の人気ナンバーワン行事だったという。
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2008-06-28

なぜ、将軍の寝所に「聞き耳役」を置くようになった?

将軍の寝所では、別の女官が聞き耳を立て、翌日、耳にしたことを報告する義務がある。こんな義務が必要になったのは、五代綱吉のある騒動がきっかけだった。いわゆる「柳沢騒動」と呼ばれる事件だった。
綱吉の愛妾に染子という女性がいた。のちに、綱吉は、染子を柳沢吉保に下されたのだが、吉保の側室になってからも、染子は綱吉の寝所に召されることがあった。よほど、綱吉に寵愛されていたのだろう。そのことに目をつけたのが、吉保である。染子を利用して、将軍から領地をもらおうと企んだのだ。染子から寝床でねだられた将軍は、「御側用人・柳沢吉保に100万石を与える」というお墨付きを書いてしまう。
これに驚いたのが、老中などの幕府の重役たちである。ところが、そのお墨付きが実行される前に、綱吉が死去したため、騒動自体はおさまった。ところが、この事件で迷惑をこうむったのが、大奥の女性たちである。将軍が大奥泊まりをするさい、側室と二人きりにしておくのは危ない、という理由で、寝床に監視役がつけられることになったのだ。「柳沢騒動」の二の舞をおそれたのである。
その後、大奥では、将軍が大奥に泊まる際には、”聞き耳役”として、添寝役の御中臈と御坊主の二人の女性を、将軍の寝所に配属させることにした。寝所には、将軍の床と、その晩のお相手となる御中臈の床の二つ、そのほかに聞き耳役の二つの床が用意されていたわけである。

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2008-06-27

一大イベントだった?徳川将軍の「夜の生活」

徳川将軍には、「御台所」と呼ばれる正妻がいた。しかし、正妻一人では、跡継ぎの男の子が生まれるかどうかは不安である。また将軍も、「これは」と思う女性と一夜をともにしてみたい。そこで、正妻のほかに、十数人の側室を置いた。
将軍が「よし、今夜がんばるぞ」と思えば、夕方までに、そばに仕えるお小姓にお相手をする女性の名を告げる。すると、お小姓が大奥の連絡係である「御坊主」に連絡。彼女が、指名された女性の名前を「御年寄」に伝えた。
指名された女性は、さっそく体を清めたり、髪を整えるなどの準備をはじめ、将軍が訪れる一時間前には寝所へ入る。そこで御年寄が中心となって、指名女性の身体検査をする。凶器や怪しげな文書を隠し持っていないかなどを調べるため、髪までほどいたという。やっと将軍が来ても、すぐにはコトにはおよばない。お茶が出て、御年寄、御坊主も交えてひとしきりの雑談。やがて、布団が敷かれ、ようやく将軍と指名女性が布団のなかに入る。
ところが、指名女性の反対側には、将軍に背を向けて、別の女官が寝ている。さらに、御坊主もそのまま部屋に残っている。また、隣の間では、御年寄と残りの女官が聞き耳をたてていた。これが大奥独特の規則で、彼女たちは将軍のほうを見てはいけないが、眠ってもいけない。床入りした女性が、睦言で不正を働きかけないように、一部始終を聞いていなければならなかったのだ。そして、翌日、耳にしたことをありのまま報告する義務もあった。
といっても、その報告は「将軍さまったら、スゴイんです。お手を背後から・・・・・」なんてことではなく、「お上におかれましては、はじめ御気鬱であられましたが、やがて御機嫌も晴れ・・・・・・」というように、格調高く行われていた。

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2008-06-26

大奥をゆるがした一大スキャンダルとその結末とは?

正徳2年(1712年)、徳川六代将軍家宣がわずか3年の治世で病没すると、ウワサ好きの奥女中たちの間で、ねたみと羨望のまじりあった艶聞がささやかれるようになった。ウワサになったのは、月光院と間部詮房(まなべあきふさ)との関係である。
月光院は、家宣の側室で七代将軍家継の生母。家宣を亡くして剃髪したときは、まだ24歳という若さだったが、わずか4歳の家継を抱え、絶大な権力者として大奥に君臨していた。一方、間部詮房は家宣の腹心だった側用人で、月光院の子の家継を立てて幕政にあたっていた。それで、大奥にいる幼君のもとに、ご機嫌うかがいに出向くことが多かった。ウワサの出どころはそこである。
「ほら、今日も間部様がお見えですわよ。月光院様との仲がよろしいようで、うらやましいかぎりですわね。「間部様は、おひとりの身でしょう。この間なんか、吹上の御庭で仲良く寄り添っていらっしゃって。まるでご夫婦のようでしたわ」
二人の仲が男女の関係まで発展していたかどうかは、はっきりしないものの、ともかく「深い仲」だと、大奥の誰もがウワサしていたのだ。幼君家継でさえ、あるとき母親と間部が密会しているのを見て、「詮房こそ将軍のよう」と、子どもならではの感想を口にしたことがあるという。
しかし、こうしたウワサには、月光院と間部へのねたみがずいぶん影響していたと考えられる。間部は、能役者から五万石の大名にまで成り上がった人物。身分制が厳格な江戸時代において、これほどの出世は異例である。月光院もまた住職の娘で、そもそも身分は高くなかった。それで、二人が幼君を盾に実権を握っていることを、こころよく思わない人間が少なくなかったのだ。
もちろん、幕閣首脳の間でも反感はつのり、間部が評定に出席しても、まったく相手にしないといった”イジメ”が加えられた。結果、間部は大奥の勢力を味方にしようと、ますます足しげく月光院のもとに通うようになったのである。
そんななかで起きたのが、正徳4年の『絵島生島事件』である。たのみの綱の幼君家継が風邪をこじらせて早世したあとは、当然ながら月光院の権威はガタ落ちし、間部は政権を追われて失脚した。
吉宗が八代将軍になった日、かつて権勢を誇った二人のことを、世間は次のような歌で皮肉った。「おぼろ月に手をとりかわし吹上の御庭の花の宴もつきたり」。

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2008-06-24

看板がなくても町奉行とひと目でわかる目印とは?

江戸の町奉行を北町と南町の二つに分けたのは、三代将軍家光である。元禄時代には、中町奉行がつくられ、江戸に三つの町奉行があった時期もある。その後、南町奉行が廃止となり、中町奉行所が北町奉行所に、北町奉行所が南町奉行所になって、二奉行体制に戻った。
江戸後期には、北町奉行所は今のJR東京駅付近、南町奉行所は今のJR有楽町付近にあった。その奉行所、時代劇では「北町奉行所」と太字で書かれた表札が出ているが、実際にはそんなものはなかった。大名屋敷が表札を掛けていなかったのと同様である。それでも、町奉行所かどうかは、正面玄関をみればすぐにわかった。北町・南町それぞれの奉行所の正面玄関には、鉄砲と胴乱(弾丸の入れ物)が飾ってあったからだ。
これは、町奉行のスタッフたちの出自に関係する。町奉行を支えるのは、50騎の与力と200人(のちに280人)の同心たちだ。その与力と同心は、かつての戦乱の時代は鉄砲隊に属していた。平和な時代がつづいていても、自らが鉄砲隊であることを示すため、玄関に鉄砲を飾っていた。

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2008-06-21

一般外国人に富士山登山が許されなかったのは?

日本が開国し、欧米の外交官が駐在するようになると、その外交官の間で富士山に登ることがブームになった。イギリス、スイス、アメリカ、オランダの外交官たちが、次々と富士山頂上を目指したのだ。
突然の富士山ブームは、外交官たちが「フジヤマ」の美しさ姿に魅せられたからだったが、幕府は外交官の登山を許可しても、一般外国人には許さなかった。そればかりか、商人などの一般外国人の外出は「開港場から10里(40キロ)」の範囲に限定していた。また、その範囲でも、許されるのは遊歩だけで、認められたごく狭い地域外では商売も禁止した。
理由は、外国人に日本国内の地理を詳しく知られると、土地租借の要求が高まったり、保護領化を目指す動きが強まる恐れが生じることにあった。自由な通行権と商業権を与えると、ほかのアジアの国々のように土地を食い荒らされ、最終的には植民地にされる恐れがあったからだ。
実際、この規制は効力を発揮し、日本の国土が外国人の手に渡ることはなかった。一般外国人に対する国内旅行の制限が、日本の植民地化を阻んだということもできる。

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2008-06-18

友好国オランダはなぜ日本を開国させることができなかった?

日本開国の扉を開いたのは、ペリー提督を派遣したアメリカだった。それ以前、日本はオランダと交易していたわけだが、オランダも日本に開国を迫らなかったわけではない。じつはオランダも、日本を開国させ、対日貿易の主導権を握りたいと考えていたのだ。
実際、オランダは、ペリー来航の9年前の1844年(弘化元年)、国王の親書を携えた特使を日本に派遣。幕府に開国を求めたが、断られている。また、ペリー来航の前年にも、長崎オランダ商館を通じて条約を提出している。
その内容は、貿易港を長崎に限り、通商を許可された国は長崎に領事を置く。さらに、諸藩にも外国品購入と土地の産物での支払いを許可するというものだった。要するに、旧来の会所貿易を基礎にした内容で、いってみれば、幕府にまず小さな一歩を踏み出すように求めた。
しかし、幕府は重い腰を上げなかった。対するオランダも、もともとの友好国だから、強引な交渉は遠慮する。結局、幕府はオランダの提出した条約を無視し続けた。
そんななか、ペリーが来航し、武力衝突も辞さない態度で交渉。その強い態度が、日本を開国させることになった。
幕府がオランダと条約を締結し、正式に国交を開いたのは、アメリカ、イギリス、ロシアと国交を開いたのちのことである。

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2008-06-15

黒船に応対した通訳が、最初に発したひと言とは?

ペリー率いる黒船がやってきたの浦賀は、江戸湾の入り口に位置する良港。奉行所が置かれ、江戸湾に入る船は浦賀港に立ち寄って、奉行の入湾許可を得なければならなかった。幕府との開国交渉を目的としたペリーが、浦賀沖にあらわれたのも、浦賀奉行に面会するためだった。したがって、徳川幕府側として、最初にペリーに対応したのは、この浦賀奉行所であり、ペリーはその様子について『日本遠征記』に詳しく記している。
まず、日本側の一隻の小船が近づいてきて、男が巻物を高々と差し上げたという。見ると、そこにはフランス語で、すぐに退去するようにと書いてあった。それから、小船の一人が英語で「私は、オランダ語を話すことができます」と言った。しかし、彼が話した英語は、そのひと言だけだった。
その通訳の名は、堀達之助といった。彼は、浦賀奉行所与力の中島三郎助とともに黒船に近づいたのだが、「オランダ語しか話せなかった」というのは彼に気の毒だろう。当時の幕府は、オランダ語の通訳しか養成していなかったのである。
もっとも、ペリー側も、そんな事情は先刻承知で、黒船にはオランダ語と中国語の通訳を用意していた。堀はオランダ語で交渉している。
その後、幕府は、アメリカから帰国してまもないジョン万次郎を英語の通訳として旗本に抜擢。以降、ジョン万次郎がアメリカとの交渉で重要な役割を果たすことになる。

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2008-06-12

「一宿一飯」の恩義にあずかるための渡世人の掟とは?

江戸時代には、任侠の世界に生きる「渡世人」と呼ばれる人たちがいた。大前田英五郎、新門辰五郎、清水次郎長、国定忠治らは、いずれも渡世人の親分たちだ。
テレビドラマの木枯らし紋次郎もたえず旅をしていたように、渡世人には旅がつきものだった。渡世人の旅は、時代劇では諸国漫遊の冒険活劇のように描かれがちだが、現実はそんなお気楽なものではなかった。渡世人の多くは、地元で不始末をしでかしたあと、ほとぼりがさめるまでの逃避行だったのだ。そんな渡世人の旅だけに、そこは厳しい掟が存在した。
旅に出た渡世人は、同じ渡世人の元に厄介になる。渡世人どうしの約束で、午後4時以降に渡世人の訪問を受けたら、地元の親分は一宿一飯の世話をしなければならない。これで、渡世人は宿と食事を確保できるが、それ以上の歓迎はない。また、客として、ルールを守らなければならない。
渡世人は、まず玄関の敷居で笠を脱ぎ、右手拳を敷居について「御免なさい」とやる。家の者は「旅人お出なさいました」と返すから、そのあと定型のやりとりをしたあと、「かよう不様にて失礼ですがお控えなさい。自分のことは・・・・・」と仁義を切る。このとき、言い損ねたり、詰まったりしたら、もうそこで相手にされなかったという。
また、夕食の「おかわり」にも制限があった。”一宿一飯”とはいえ、二膳目まではOKだったが、三膳目を食べることは許されなかった。いくら勧められても「体の調子が悪いので」と辞退するのがルールだった。
こうした掟を破ると、たちまち追い出されたという。

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2008-06-09

東海道に「四谷」はないのに、なぜ『東海道四谷怪談』?

歌舞伎狂言の『東海道四谷怪談』といえば、1825年(文政8年)、江戸中村座で初演された四世鶴屋南北の代表作。「四谷怪談」を下敷きにして「忠臣蔵」の世界をパロディにしたものだが、よく考えてみると、このタイトルには大きな謎がある。
四谷怪談の舞台は、今の新宿区の四谷界隈である。その四谷は甲州街道沿いにあって、東海道沿いではないのだ。それなのに、タイトルは「東海道四谷」というのは奇妙な話である。さらに『東海道四谷怪談』の舞台は、新宿区の四谷でなく、雑司が谷四谷町、今の豊島区高田となっている。雑司が谷の四谷が選ばれたのは、神田川沿いを舞台にしたかったためとみられる。当時、不倫の男女を戸板に釘付けにして神田川に流した事件があり、鶴屋南北はそれを話に組み込むため、神田川に近い場所を舞台にしたのだろう。
しかし、それはなんとか理解できても、「東海道四谷」とした理由は、はっきりしない。まず、東海道にも、今の神奈川県藤沢市に「四谷辻」という場所はあったのだが、『東海道四谷怪談』には江戸の他の地名も登場する。藤沢市を舞台にした話とはとても思えない。
しかし、新宿区の四谷を「東海道」としてもおかしくはないという説もある。この「東海道」は「とうかいどう」ではなかったというのだ。事実、『東海道四谷怪談』は初演の絵本番付では「あづまかいどうよつやかいだん」と読まれている。
当時、京都から見て江戸は「あづま」と呼ばれていた。そう考えれば、「あづま」の街道なら、東海道でも甲州街道でもいい。甲州街道の四谷も「あづまかいどう(東海道)」に入るという説だ。
また、地名に忠実に「江戸四谷怪談」としたのでは、幕府を刺激しかねないので、ひねりを入れて「東海道」としたという説もある。江戸で起きた事件に「江戸」のタイトルを入れると、ストレートすぎるので、当局の目をそらすため、『東海道四谷怪談』にしたというわけだ。
ほかにも諸説があるが、今なお定説はなく、真相は鶴屋南北のみ知るところだ。

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江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

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