江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2008-07-30
江戸時代に出現したストリーキング事件とは?

ある夜、四郎七は座敷牢を抜け出すと、何を思ったか、全裸になって駆け出した。深夜なので、外を歩く人はほとんどいないなか、四郎七は岡山の城下を走って知人の家にたどり着いた。素っ裸の男に驚いた門番が、門を開けなかったので、またもや深夜のストリーキング。今度は、親戚の屋敷に立ち寄り、門を叩いた。やはり、驚いたのは門番で、あわてて通用口を閉めたが、四郎七は、「後ろからチョウチンが来る」と叫ぶ。その声で、門番が呆気にとられたスキに、四郎七はスルリと抜けて屋敷内に入り、そのまま座敷まで上がり込んでしまった。騒ぎに起きてきた屋敷の女たちも、フルチンで走り回る四郎七に悲鳴をあげ、大混乱となった。
そこへ登場したのが、主の富田辰四郎であった。彼は、すこしもあわてず、「ようこそ、この夜中によく来られた。寒い夜だ、さあ、まずは火の近くに」と声をかけた。辰四郎の落ち着き払った対応に、四郎七も、われを取り戻す。着物を着せられ、布団の上に横たわると、すぐに眠ってしまったという。
辰四郎の手配で、四郎七の家からカゴで迎えに来て、この深夜のストリーキング事件は一件落着となったのだった。
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2008-07-28
江戸時代、女性の髪形の流行は遊女からだった?

髪を結い上げる習慣は、上流家庭の女性が結っていた「元結い」と呼ばれる髷(まげ)が元祖とみられている。太宰春台の『独語』には、元結いは江戸初期から結いはじめられたと記されていて、これがその後の結髪法のルーツになったと考えられる。髪を結うのが一般的になると、流行のヘアスタイルも登場する。その流行を引っ張ったのは、もっぱら遊女たちだった。お客を呼ぶためにあれこれ工夫して、オリジナルを編み出したことが、庶民の目には斬新に映ったのだろう。遊女たちは、今でいうファッションリーダー的な存在だった。
たとえば、江戸時代の女髷の原型といわれる「兵庫髷(上方では「まげ」ではなく「わげ」と呼んだ)」「勝山髷」「島田髷」「笄髷(こうがいわげ)の四系統の髷のうち、三つまでが遊女のオリジナルヘア。
兵庫髷は延宝(1673~81年)のころ兵庫の遊女が考えだしたもの。勝山髷は、吉原の遊女・勝山が結っていたハデな髷で、元禄時代に芸人や遊女の間で大流行した。
島田髷は、東海道の島田宿の遊女が結いはじめたのが最初といわれる。“髱(たぼ)(後頭部の髪の張り出したところ)”を出して、余った髪を男の髷のようにふくらませて結い上げるスタイルで、これがさまざまに変化して、江戸時代の女性のヘアスタイルの基本となった。今の花嫁の髪型「文金高島田」も、この島田髷が原型となっている。
それに対し、笄髷は、室町時代に宮中の女官が下げ髪を笄に巻き付けて上げた髪形がもと。元禄のころ、一般庶民の間でも流行した。
2008-07-27
「蓮を見に行こう」が誘い文句だった場所とは?

当時のラブホテルは「出会茶屋」と呼ばれ、江戸では、上野の不忍池あたりに集中していた。不忍池は蓮の名所だったので、蓮見物を口実に誘ったのである。「蓮を見に息子を誘ういやな後家」という川柳も残っているくらいで、「不忍池の蓮を見に行こう」といわれれば、当時の人たちは何をするかピンときたのである。
ただし、出会茶屋に泊まりはなく、休憩専門。料金は、食事つきで1分(4分で1両)が相場だった。今のお金に換算すれば、1万円以上はしたわけで、庶民が気軽に使えるところというより、現在の感覚でいえば、一流料亭で休憩するようなものだった。そのため、常連客は、大店の未亡人と若い番頭とか、江戸城の女中と歌舞伎役者など、金はあっても、世間をはばかるカップルたちが中心だった。
2008-07-25
「三の酉には火事が多い」説と吉原との意外な関係?

毎年、11月になると、江戸の町には酉の市が立ち、多くの人が参拝した。鷲(おおとり)神社の酉の市の名物が熊手であったところから、福をかき込む→縁起がいいとされ、くわえて酉が「(お客を)取り込む」に通じるところから、とくに商売人や花柳界の人々の信仰を集めていた。もちろん祭り好きの庶民もお参りしたが、その鷲神社があったのは下谷竜泉町。つまり、浅草の近くで、そのすぐそばには吉原があった。そのため、世の亭主たちには、参拝にかこつけて、吉原で遊ぶ者が少なくなかったのだ。酉の市は、ふつう月に二度だが、何年かに一度は月に三回開かれる年がめぐってくる。その年の11月には、亭主たちは、酉の市にかこつけて、月に三度も吉原へ足を運ぶ者がいたのである。
しかし、女房たちは、二度までは許しても、三度目は許しはしなかった。家計に響くという理由もあれば、嫉妬もある。亭主の吉原通いをなんとか阻止しようと、「三の酉の年には火事が多い。だから、夜遊びはほどほどにしなよ」といいはじめたのだ。
女房のなかには、あろうことか、本当に空き家に放火して、信憑性をもたせようとする者もいたという。
2008-07-24
吉原でモテたい武士がとった苦肉の策とは?

懐が寂しいので、チップをケチる。なのに、いざ布団に入ると鼻息だけは荒い。そのくせプライドは高いというわけで、遊女たちの評判は散々だった。
なかでも嫌われたのは、参勤交代で江戸に出てきたばかりの田舎武士たち。吉原のウワサを聞き、頭のなかでイメージばかりを膨らませているが、振る舞いはガサツで、センスのかけらも感じられない。あげく、肌を合わせても力まかせに動くだけで、遊女にとっては苦しいだけだった。そのため、武士のなかには、町人姿に変身して吉原へ通う人もいた。金持ちの町人を装ってコトにおよび、遊女が「あれ(私)、もう死にんす」と叫ぶと、ついつい「拙者(せっしゃ)も相果てそうじゃ」と口をすべらせ、身分がバレてしまったという笑い話も伝わっているくらいだ。
2008-07-23
夜遊び好きのお坊さんの“変身スタイル”とは?

お坊さんも、芸妓遊びをしたいが、まさか袈裟姿で祇園の町を歩くわけにはいかない。普通の服を着ても、剃りあげた頭を見れば、誰にでもお坊さんだとバレてしまう。そこで、ベレー帽をかぶることが習慣のようになったのだ。
江戸時代のお坊さんたちも、吉原へ遊びに行くときは、ある職業に変装して通ったという。医者である。
当時の医者は頭巾をかぶっていたので、坊主頭にも好都合だったのだ。僧侶たちは、風呂敷に頭巾と着物、上っっぱりを包んで抱え、吉原へ向かう途中、着替えたという。ちなみに、小金持ちが多いお坊さんたちは、吉原の上客ベスト3に入っていたとのこと。
もっとも、現在のお坊さんの名誉のために付け加えておくと、今は僧侶にも妻帯が認められているし、祇園の御茶屋は、あくまでも芸妓さんの芸を楽しむところ。遊郭だった吉原とは性格が違う。
一方、江戸時代は、一部の宗派をのぞいて、僧侶は妻帯も女犯も禁じられていた。にもかかわらず、当時のお坊さんは医者に変装して、せっせと女遊びにうつつを抜かしていたのである。
2008-07-21
天保の改革に「男娼の禁止」が含まれていたワケ?

じつは、この男娼禁止、水野忠邦の体験から加えられた措置のようなのである。彼が、老中になるまえのこと、ある大名に招かれた宴席で、忠邦はひとりの“美少女”にひかれた。接待に出ていた“少女”だったのだが、身なりや立ち振る舞いから、とても大名屋敷の腰元とは思えない。大名育ち、儒教を学んで育った堅物の忠邦には、これまでにみたこともないような“少女”だったのである。
ところが、家来にその身元を調べさせてみると、「陰間」と呼ばれていた男娼だったことが判明した。堅物の忠邦は、すでに江戸の名物となっていた男娼の存在を知らなかったのだ。
忠邦は「だまされた!」という悔しさもあって、激怒した。天保の改革で、陰間禁止の命令をしたのは、その腹いせだったのではなかったかともいわれている。
2008-07-20
僧侶が通った「陰間茶屋」とは?

彼らは、好みの芸者に言い寄って思いを遂げたいのだが、なかなかそれができない男もいる。あるいは、いろいろな少年を味わいたい男もいる。そんな欲望に応えて、江戸では「陰間茶屋」が繁盛していた。
陰間とは、もともと歌舞伎俳優を目指す少年のことをいったが、しだいに男相手に売春する12~18歳くらいの少年のことを指すようになる。実際、歌舞伎役者の卵が売春することも多かった。もともと、彼らは贔屓客に体を買われることが多く、それがいつしかシステム化され、陰間茶屋ビジネスに成長したのだ。
陰間茶屋は、湯島天神前や芝明神、麹町天神前など、江戸各地に点在し、メッカは芳町だった。芳町の近くには、中村座や市村座などの芝居小屋があり、役者志望の少年、つまりは陰間が多かった。1764年(明和元年)の芳町には、24軒もの陰間茶屋が並んでいたという。
陰間目当ての客には武士や町人もいたが、一番のお得意様は僧侶だったという。僧侶の場合、女犯が露見すると重罪に問われる。実際1610年(慶長15年)から1866年(慶応2年)までの257年間に、、八丈島に島流しになった者1813人のうち、221人は僧侶だった。彼らの多くは、女犯の罪を犯したとみられる。
そこで僧侶たちは、島流しを避けるべく、安全な陰間茶屋に足を運んだというわけだ。陰間茶屋で一日陰間を買い切ると三両はかかったというが、僧侶にはその資金力もあったのだ。陰間でいられるのは、18歳くらいまで。骨太の成人男性になってしまうと、もうお客はつかなくなる。その後、元陰間たちは、今でいう”ホスト”に転職し、未亡人や御殿女中を相手に励み続けたのである。
2008-07-18
女郎屋主人が提案した黒船退治のアイデアとは?

この騒動を利用しようとしたのが、新吉原の女郎屋の亭主である。「小船に贈り物を積んで黒船に乗り込み、うまくだまして酒盛りを開く。そして、相手を油断させたところで、火薬庫に火をつけ、乗組員をマグロ包丁で切り殺す」という、いかにも町民らしい方法を提案。そして、もし自分の計画が成功すれば、見返りとして、新吉原遊郭の拡張を認めてほしいとお願いした。だが、このちゃっかりした交換条件も、自爆テロのような方策も却下。お上から、相手にされることはなかった。
もっとも、黒船退治の妙案といっても、庶民はもちろん、幕府でさえ、黒船についての詳しい情報をもっていなかった。そのため、寄せられた提案も、海上にゴミを流し、黒船のスクリューを動かなくするとか、潜水の達者な者を集めて、船底にキリやノミで穴を開けるというレベルのものばかりだった。
2008-07-16
江戸の水車小屋で、爆発が多発したのはなぜ?

ペリーらから開国を迫られると、幕府はさっそく軍備拡張を始めた。ところが、大砲や鉄砲といった近代兵器をそろえたところで、肝心の火薬を大量に製造できる施設がなかった。そこで幕府は、農村にある水車を火薬製造の動力源とすることを思いつき、江戸近郊の農家に命じ、にわかに火薬作りを開始した。しかし、専門家を養成する余裕はなく、素人に製造させた結果、あちこちで爆発騒ぎが起きる結果となったのだ。
なかでも、大きな被害を出したのが、神田川にあった淀橋水車である。現在の新宿区と中野区の境あたりに、直径4.85メートルと大きな水車が、間口20メートル、奥行10メートルの小屋の中で回っていた。
1854年(安政元年)、この水車小屋で大爆発事故が起きる。その爆風で、中野村では何軒もの農家が吹き飛ばされ、多数の死者が出る惨事となった。
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