江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-08-31

江戸の娘が習い事に一生懸命だったワケ?

いまも昔も、多くの独身女性は良縁を得て玉の輿にの乗ることを夢見ている。また、自分の娘が玉の輿に乗ることを望まない母親もいないだろう。
江戸も中期の元禄時代には、多くの町人が自分の娘を武家屋敷に奉公させたいと願っていた。当時、江戸の町人の人口は、圧倒的に男性が多く、女性は全人口の37パーセントほどだった。そのため町人の娘であっても、玉の輿に乗るチャンスがあった。そして武家屋敷への奉公は、その最大の近道だったのである。
武家屋敷に奉公に出された娘は、行儀見習いをしっかり教えこまれた。それも、町人の家とはまったくちがう高尚な作法や教養を身につけることができたのである。武家屋敷で働くことで、おのずと良縁に出会うチャンスも多くなった。そこで、町家の親たちは、娘を武家に雇ってもらえるように、さかんに芸事を習わせた。武家屋敷の大名や旗本は、町方から女性の奉公人を雇ったが、三味線、琴、踊り、小唄、浄瑠璃などの芸事が身についていることが採用の条件となることが多かったからだ。そのため、江戸時代にたくさんいた猛烈な教育ママは、娘にいくつもの芸事を習わせたのだ。
いっぽう、採用する側にも現代の企業を彷彿とさせるつぎのような話がある。柳沢吉保の孫、信鴻は、隠居すると江戸駒込の別邸、現在の六義園に住んだ。そのさい、女性の奉公人を大勢雇うことになり、娘たちの実技テストを行ったと日記に記している。以後、信鴻は20年近くにわたって250人近い町娘と面接したが、この実技テストは彼の楽しみになっていたという。
柳沢家に奉公できれば名誉なことで、玉の輿により近づける。もっとも、思惑どおりに玉の輿に乗れる者は、100人にひとりいるかいないかだったが、玉の輿に乗れなくても、何年が奉公していれば実家に戻るときには着物もたくさんたまるし、嫁入り道具も賜ることができた。それ以上に、武家に奉公すると、町屋とはちがう行儀作法や言葉づかいが身についたので、商家との良縁にめぐり合える可能性が高くなったのである。
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2008-08-30

遊郭遊びの後、お金が払えないとどうなる?

遊郭でさんざん飲み食いをして遊女と床をともにしたはいいが、朝になって勘定を払おうとしたらお金がない。江戸時代にはそんな客も少なくなかった。こんな客には、古い風呂桶に客を押し込める「桶伏せ(おけふせ)」という仕置きがなされた。
風呂桶に閉じ込められたまま、客は家の者が代金を持ってくるまで、じっと待たなくてはならなかった。食事は一椀の飯しか与えられず、便所にも出してもらえないから、垂れ流すしかない。さらに、代金を立て替えてくれる者が現れなければ、5、6日もこの仕置きを受けなくてはならなかった。しかし、このような仕置きをしても、見せしめにはなるが、お金の回収にはつながらない。そこで、だんだんと桶伏せの仕置きはなくなり、代わりに取り立て屋を使って代金を回収するようになった。
この取り立て屋にも二通りがあり、客の家についていって、そこで代金を回収するのが「付け馬」という取り立て屋である。客から回収した代金を遊郭に渡し、そこから手数料をもらった。とはいうものの、客の自宅へついていっても代金が回収できない場合がある。そのようなあまり裕福でない客の場合には、「始末屋」と呼ばれる取り立て屋が登場した。
始末屋は、客の身なりや職業などから、まず「○○円なら請け負う」といったことを遊郭の主人に話す。遊郭としては、代金を100パーセント回収したいところだが、それが無理ならせめていくらかでも回収したい。始末屋との交渉により納得した金額で、始末屋に客を渡すのである。始末屋は、遊郭の主人に請け負った金額を払ったあと、客を自宅へ連れて行く。
始末屋としては、遊郭の主人に払った以上の金額を、その客から絞りとらなくては儲けにならない。金の都合がつかなければ、客の家財道具を売ったり、着物をはがしたりして、非情な取立てを行った。始末屋から身ぐるみはがされて、ふんどしと手ぬぐいしか手元に残らなかったというような話も伝わっている。

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2008-08-29

江戸の女性の70人に1人は体を売っていた?

徳川家康が東海地方から移ってくる前の江戸は、小さな漁村。ところが、幕府が開かれると人口がどんどん増え、幕末の最盛期には100万人を超えていたといわれる。
しかし、大都市ゆえのひずみも多く、その一つは、売春婦の数が異常に多かったことがある。幕府から公認されていた吉原の遊女をはじめ、100か所以上あった岡場所の私娼などすべてを合わせると、幕末には5700人ほどの売春婦がいたという。これはすさまじい数字である。当時の江戸の人口の約40%が女性だったとしても、40万人中の5700人。つまり、70人に1人が、体を売って生活していたことになる。
これほど大量に売春婦がいたのは、江戸には単身赴任や独身の男性がやたらと多かったせいもある。殿様の参勤交代に従い、地方から江戸にやってくる下級武士は、ほとんどが単身赴任者。また、独身の商人や職人も、お金のかかる吉原は行けなくても、近くの売春宿へは遊びに行く。さらに、男ばかりが寺院で暮らす僧侶たちも、連れ立って遊びに出かけた。
一方、女性の側からすれば、家庭内にあるときは別として、ひとり身の女性の働き場所は限られ、収入を得る手段は少なかった。地方では、ひとり身の女性の働く場所はさらに少なかったため、地方から売られてくる女性が多かったことも、江戸に売春婦が異常に多い理由だった。

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2008-08-27

混浴だった江戸の湯屋で「間違い」は起こらなかった?

江戸時代には、庶民の暮らした貧乏長屋はもちろん、かなりのお屋敷に住む町民や下級武士の家にも、たいてい内風呂はなかった。自宅に風呂場をつくろうとすれば、専用の湯殿と井戸が必要だったが、江戸の町はもともと井戸水の出が悪かった。そのため、京や大坂に比べて江戸には湯屋が多く、江戸時代末期になると町内に一軒はあり、なかなか繁盛していた。
当時の湯屋は混浴で、町人や下級武士の娘も、職人たちと一緒の風呂に入っていた。混浴というと今では驚きだが、やはり江戸時代にも風紀上問題があるとして、寛政3年(1791年)には、いったん男女の浴場が分けられる。しかしその後は、混浴に戻っては再び禁止令が出される、のくり返しだった。
当時の湯屋の間取りは、今の銭湯とほとんど変らない。番台で料金を払ってなかへ入ると、脱衣場がある。そこで、鍵付きの衣棚に衣服を入れ、男女とも、鍵を頭の髪にさして洗い場に入る。当時、板で囲まれた浴槽は、灯油皿に火が一つ灯っているだけで薄暗く、チカンが出るのも、もっぱらこの浴槽のなかだった。わざわざ手足を伸ばし、女性の肌に触れようとする男もいれば、威勢のいいおかみさんのアソコに手を伸ばして怒鳴り返される男もいたという。
そんな物騒な浴槽に、町屋の娘さんも入ったのだが、娘さんもそれは承知のことだったとか。「物騒と知って合点の入込み湯」という川柳も残っている。もっとも、貞淑な下級武士の娘には、スケベな男たちから身を挺して守ろうとするおばさんたちが付いていたという。
ちなみに、江戸ではじめての銭湯は、徳川家康が江戸に入った翌年の天正19年(1591年)、伊勢国出身の与一という男が、銭瓶橋(ぜにかめばし・現在の丸の内)に開業したとされている。ただこの湯屋は、ただの銭湯ではなく、“垢すり女”と呼ばれる女性がいて、お客の下半身の世話もする新手の風俗店だった。

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2008-08-26

庶民が布団の下に風呂敷を敷いて寝た理由とは?

江戸の庶民の多くは、裏長屋に住み、四畳半ほどの狭い部屋で家族が寝起きしていた。寝るときの夜具はというと、敷き布団だけで、なんと掛け布団がなかった。敷き布団の上に枕を置き、掻巻(かいまき)と呼ばれる綿入りの夜着をかけて寝ていたのだ。
武家や豊かな商家は掛け布団を用いていたが、庶民にはぜいたく品で使えなかった。しかし、掛け布団がなくても、掻巻は着物よりひとまわり大きく、襟と広袖のついた綿入れなので暖かかった。さらに、江戸っ子は、寝るときに工夫をしていた。まず床に八端織の風呂敷を、四ヶ所の角が頭の方角、左右の方角になるように敷く。その上に敷き布団を敷いて掻巻をかけてねたのだ。
こうしておくと、いざ火事になったときに、夜具を風呂敷でくるくる巻き、左右の風呂敷の角を持って夜具一式を背負い、左右の角を首の前で結び合わせて、すぐに持ち出すことができた。火事がひんぱんに起きた江戸が産んだ、庶民の賢い知恵である。

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2008-08-25

正座のマナーは江戸時代に武士道から生まれた?

現代では、正座はもっとも礼儀正しい座り方とされているが、正座をするようになったのは、三代将軍家光の時代からで、日本人は古来より身分や男女の別なく、胡坐(あぐら)座りを基本作法としてきた。桃山時代から江戸初期に描かれた古画を見ると、女性の場合は立て膝で座るのが習慣だったようだ。
じつは、家光の時代以前は、膝を折って正座することは、「膝を屈する」ということで、最大の屈辱と考えられていた。身分の低い者が主君の前で座るとき、正式の場や親の前でも正座はしなかったといわれている。その正座が、もっとも礼儀にかなった作法となったのは、ひとつには、家光が臣下に絶対服従の意思表示をさせるため、膝を屈する正座をさせたからだという説がある。
また、別の説には、室町時代の後期にさかんになった茶の湯が発祥というものもある。狭い茶室で行う茶の湯は、胡坐では隣人がぶつかりあうので、膝を折る正座が作法になった。さらには、女性の着物は室町時代後期から身幅が狭くなったので、片膝を立てると、着物の裾が割れて秘所が見えてしまうからだという説まである。
日本の由緒正しい礼法である小笠原流礼法では、正座をするときは、膝の上にのせた右手を下に、左手を上に重ねるのが作法になっている。武士にとって、右手は武器を使う手だ。その右手を左手で覆い隠すことで、相手を襲う気はまったくないということを示す意味があった。

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2008-08-23

町火消しの着衣にも決まりごとがあった?

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたほど、江戸時代には火事が多かった。家屋が木造で襖は竹や紙でできてたうえ、冬は雨が少なく空っ風が吹くので、一度火がつくと、またたく間に燃え広がってしまう。
大火は3年に一回はあったといわれているが、なかでも江戸市中を焼き尽くしたのが明暦3年(1657年)の「振り袖火事」である。幕府はこの大火後、火除け地を設けたり、火の見櫓を設置するなど防火対策を強化した。享保3年(1718年)には、南町奉行の大岡忠相の命により、町火消しの制度がつくられた。まず大組が1番から10番まであり、その下に小組「いろは四十八組」が組織された。テレビドラマの時代劇によく出てくる「め組」は、この町火消しの小組のひとつだ。
当時の町火消しの多くは鳶人足で、いつもは道路の補修や警備、祭りの準備、注連縄(しめなわ)づくりをしていた。火事が起きると先陣を切って火事場に駆けつけ、意気と張り(意気地)で勇敢に消火にあたり、多くは英雄視された。その町火消しが着ていた半纏(はんてん)は、ヒーローとしての証しであった。半纏の裏地には華麗で派手な染め柄があり、江戸っ子のこだわりを表している。さらに、火消し半纏の染め柄には、混乱する火事場で、ひと目でどこの組の何の役目のものかがわかるように、いくつかの決まり事があった。
半纏の背中には各小組のマーク、襟には各小組の名前と役職が書かれていたのだ。いろは四十八組には、頭、副頭、小頭、筒先、道具持ちという役職があった。また、腰まわりには白線が書かれた。この白線が1本なら大組1番、10本は大組10番というように白線の数で所属する組がひと目でわかった。さらに頭と副頭の半纏には、赤い線が袖から肩にかけて入れられていたから、これも目立った。
そして外からは見えない裏地にも派手な絵柄が染められた。自分で染め柄をデザインして注文する者や、天然藍染めにこだわる者もいたし、大店の主人などが、ヒーローのために豪華な裏地を贈ったりもした。半纏を染める職人には、型彫師や型付師がいたが、派手な絵柄には、絵師が手描きで絵付けをしていた。

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2008-08-21

オシャレをしすぎて全財産を没収された?

江戸幕府は、庶民の服装が華美になるのを嫌い、しばしば美服禁止令を発したが、江戸っ子のおしゃれ好きはそうそうおさまるものではなかった。なかでも、豪商ともなると財力にものをいわせて、意匠を凝らした服を好んだ。しかし、このおしゃれ心のために、将軍の怒りをかってしまった哀れな商人もいた。江戸の豪商石川六兵衛である。
五代将軍綱吉が上野へ参詣したときのこと。将軍の行列を見物していた人々のなかに、ひときは目立つ一団がいた。資料によると、そのいでたちは次のようなものであった。「18人のおかっぱ頭の童女は、赤い縮緬に金糸で草を刺繍した小袖を着ており、37人の腰元の女たちは、輸入物の唐織の織物で仕立てた小袖をまとっており、その他大勢のお供がいた。また、ガラスの駕籠があり、駕籠の担ぎ棒は高級木材である黒檀を使っていた」
一説には、これらの一団の女主である石川六兵衛の妻は、上野の町屋を借りて、金の屏風を立て、将軍の行列に向かって、大量の伽羅(きゃら・お香の一種)の煙がかかるように金の扇子を使って侍女たちにあおがせたともいわれている。武家を上回るその華美ないでたちに激怒した綱吉は、六兵衛を「闋所(けつしょ)」という罪に問い、全財産を没収のうえ、江戸から追放した。
このようなことがあったため、庶民の服装が華美になるのを禁じる条例が何度も発布されたのである。その中身は、庶民は絹の服を着てはいけない、などといった服の素材にかんするもの。そのほか、服の生地の織り方や柄も制限された。
しかし、江戸の豪商はそれにもめげなかった。外から見てもわからないように、裏地に派手な色や高級な生地を使ってひそかにおしゃれを楽しんだのである。

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2008-08-19

髪形にこだわるのが江戸の男の“基本”だった?

江戸の町人はきれいで好きで、見だしなみにとても気を配っていた。たとえば、江戸っ子は風呂好きで、大きな通りには必ず湯屋があり、昼でも銭湯に入っていた。体臭や口臭に気を使い、襟足の汚れや鬢(びん・頭の左右の側面の髪)のほつれも嫌った。ひげも毎日剃り、無精ひげは敬遠された。髪形にもひじょうにこだわり、月代(さかやき)をいつもきれいに剃りあげようと、足しげく髪結床に通った。
月代とは、前頭部から頭の中央にかけて髪を剃り落とした部分のこと。戦国時代に武士が兜をつけたとき、頭が蒸れるのを防ぐために髪を剃ったことからはじまったといわれる。町人が月代を剃ることを習慣するようになったのは、江戸時代の初期からである。江戸っ子は、月代をどこまで剃りあげるか、どれくらいの幅でどういう形に剃るかなどにも、ひじょうにこだわった。
そんななか、江戸時代を通してももっとも結われた男性の髪形が、銀杏髷(いちょうまげ)であるよく、「ちょんまげ」というのは、この髪形をさす。銀杏髷は月代が狭く髷が長い。いっぽう、月代を極端に広く剃り、髷を細く高く結い上げるのを本多髷と呼び、粋な商家の若旦那が好んでこれを結った。
こうして、自分のお気に入りの髪形にしたとしても、月代は剃りあげたら、マメに手入れをしなければ、すぐに伸びてしまう。武士、町人とも、月代が伸びたままで見苦しいのは、無粋とされ、嫌われ者だった。伸び放題なのは浪人か病人だけで、つねに月代をきれいに剃りあげておくのが、江戸っ子の粋な作法だったのである。髪結床は湯屋に付設しているものもあって、湯に入ったあとに立ち寄る町人で繁盛した。店は土間で、客は通りに向いて腰掛ける。はじめに水で濡らした月代を剃り、次に髪を解き、顔を剃ってから髷を結う。代金は16文から28文くらいであった。
江戸中期ごろからは、道具を持って家々を回る出張専門の髪結も登場した。これを「回り髪結」といい、利用するのは商家の大店の主人や番頭が多かった。月代が伸びたままなのは恥とされたので、なかには毎日のように、回り髪結を呼ぶ主人もいたほどである。

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2008-08-14

女性の髪形は年齢によって変化した?

古来よりずっと髪を垂らしていた女性は、江戸時代に入ると髪を結い上げるようになった。それが髷(まげ)と呼ばれた髪形である。男性も幼児期、少年期、成人(元服)後と髪形を変えていくが、女性の場合はもっとひんぱんに変化した。また、年齢のほかにも、流行や環境によって髷の形は変っていった。ではじっさいに、江戸時代の女性の髪形にはどのようなものがあったのだろうか?
江戸の女性の髪形は、基本的に年齢とともに変化していく。最初の髪形は、幼児期の坊主頭である。これは男性も同じだ。次に3歳で髪置きの儀式をへて、髪を伸ばしはじめるが、幼いあいだは芥子坊主(けしぼうず)、奴頭などと呼ばれる男女共通の髪形をしていたため、男女の区別がつきにくかった。
10歳~12歳の少女期に入ると桃割れという髪形に結って、はじめて女性特有の髪形になる。15歳~16歳くらいになると、「髪上げ」という女性の成年式にあたる儀礼で島田髷を結う。別名が「娘島田」。同じ島田髷であり、婚礼当日だけ結う「文金高島田」は、現在でも和装の花嫁のかつらに使われる髪形だ。この文金高島田で婚礼をあげ、既婚者になると、今度は丸髷になる。しかもその髷は、年をとるごとに小さくしていくことがしきたりだった。
以上が一般女性の経年のよる髪形の変化である。ただし、あくまでも一般例であり、江戸の女性はそのときどきの流行に合わせて、さまざまな髪形を取り入れていた。たとえば有名なのが吉原遊女の兵庫髷だ。もともと播州(兵庫県)の遊女の髪形を参考にしたものだといわれている。島田髷も、もとはといえば駿河国(静岡県)三島宿で飯盛り女が結っていた髪形から生まれたもので、江戸時代の女性のヘアスタイルの流行は、水商売から発生していたようだ。そのほか歌舞伎で人気役者が使った髪形を取り入れたものもあった。
また、結い上げのほかに、「たぼ」と呼ぶ頭の後ろに張り出した部分、「びん」と呼ぶ頭の左右の部分、前髪などのパーツの形にも工夫が凝らされるようになり、髪形は複雑化していった。
江戸期を通じて用いられた髪形を分類すると、なんと数百種にも達するというから、いかに江戸の女性が流行に敏感で、髪形にこだわっていたかがわかる。

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