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江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


2008-09-29

武士は無断外泊を禁じられていた?

江戸時代は武家社会のため、武士は多くの特権を持っていた。しかし、そのいっぽうで、武士であるがゆえに行動が規制されるという一面も持っていた。たとえば、旗本・御家人は、御府内から外に出る場合には、必ず届けを出さなくてはならなかった。いざというときに戦場へ駆けつけて戦わなければいけないのだから、所在がわからなくては役にたたない。つねに、どこにいるかを明らかにしておく必要があったのである。
そのため旗本・御家人は、どこかに出かけるときでも、日帰りが基本だった。つまり、いくら暇な役職でも、ぶらぶらと遠くまで気ままに出かけることは許されなかったのである。たとえ江戸にいる場合でも、武士の行動には制限があった。それが外泊禁止である。武士は、その日のうちに必ず自宅へ帰っていなければならなかった。その日のうちとは、だいたい日付が変る子の刻(午後12時)までである。お酒を飲んでいて午前様といった状態は許されなかったのである。
万一、子の刻までに帰宅していないことが幕府に知れたら、その武士はお咎めを受け、最悪の場合には、お家断絶にいたる可能性さえあった。何かの事情で外泊しなければならない場合には、幕府への届け出が必要だったのである。この外泊禁止も、非常時に備えてのことである。
こうなると、武士の生活はとても味気ないものに思えてくる。しかし、武士のほうも心得たもので「外泊ができないのなら」と、昼間に遊郭を訪れ、昼のうちに遊んでいた。これなら、幕府からお咎めを受けることはないというわけである。
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2008-09-25

赤ん坊の初おっぱいは母親以外の女性から?

将軍家や大名家では、跡継ぎが生まれても生母が育てることはあまり例がなく、ちょうど同じころに出産した女性が乳を与えるのが一般的だった。この役割の女性を「めのと」と呼んだ。それがもし、お乳だけではなく養育までを引き受けることになると「うば」と呼ばれた。文字にすればどちらも「乳母」である。
また、そうした上流階級以外でも、他人の赤ちゃんにお乳を与える女性はたくさんいた。いずれも、生母が病弱だとか出産時に死亡したというような不幸の場合に、生母の父親あるいは祖父母の家庭が乳母を雇ったのである。
このほか、長屋住まいの男やもめなどで、雇うお金がないときは「乳もらい」といって、無償で乳を分けてくれる人を探して頼んだ。この「乳もらい」の相手は多くの場合、同じ長屋住まいの女房たちが探してきた。長屋の人間はお互いに協力しながら生活していたが、それがこういった場面にも見ることができる。このように、江戸時代には父親ひとりでも子どもが育てられるような環境がととのっていた。しかし、それでも育てられない場合は、お乳の出る人のいる家に預けっぱなしになった。このケースは「里親」と呼ばれた。
こうした授乳にかかわる生母以外の女性のほかに、新生児にとっては重要なもうひとりの女性の存在があった。それが「乳付け親(ちづけおや)」だ。江戸時代には赤ちゃんが生まれてはじめて飲むおっぱいは、生母以外の人のものというしきたりがあって、その役をつとめた女性をこう呼んだのである。

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2008-09-22

江戸式のお産スタイルは「座っていきむ」が基本?

昔の日本人は、出産は血の穢(けが)れをともなうため忌むべきことだと考えていた。そのため、出産のさいには、特別に「産屋(うぶや)」を設けて産婦を隔離するという習慣があった。
江戸時代になるとこの習慣は薄れ、産屋を設けることはなくなっていった。代わりに母屋のなかに「産室」と呼ばれる部屋をつくるようになる。とはいえ、出産を穢れとする考えは完全になくなったわけではなかった。産室の畳は上げられ、床板にじかにムシロを敷いただけの産室がしつらえられたり、妊婦の食事が別につくられたりしていた。では、このような産室で行われた出産はどのようなものだったのだろうか。
出産には産婆が立会い、妊婦は座位出産に臨んだ。妊婦は上半身を起こし、天井から吊るされた力綱を握っていきんだ。上半身を起こした姿勢を保つための座椅子も考案されていたようだ。この座位出産は現代でも、妊婦にも胎児にも負担が少ない出産方法として知られている。ただし、江戸の座位出産は現在の座位出産と異なり、産後に産婦が体を横たえることが許されなかった。背中にたたんだ布団を当てておき、日ごとに布団の厚さを減らして横たわれるようにしていった。そんな日がおよそ21日続くのがふつうで、横たわれるようにな日が同時に床上げとされた。
また、出産が無事に終わると、胎児を包んでいた膜や胎盤は土中に埋められた。埋められる場所は、産室の床下、母屋の入口、便所の前などが選ばれ、新生児の父親が埋める役をつとめた。江戸の町では、この土の上を最初に通過した人や昆虫、犬猫などを、生まれた子どもが嫌いになるという迷信も存在した。いっぽう、母親の胎盤と赤ん坊のへそをつないでいたへその緒は大切に保管された。一説には、成長して大病にかかったとき、煎じて飲ませると薬効があると考えられていた。
江戸時代の女性はこうしたお産を終えてはじめて、嫁ぎ先の一員としての存在価値が認められた。江戸時代の女性にとって出産とはそれほど重要な一大事業だったのである。

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2008-09-20

お花見は“玉の輿”の大チャンスイベント?

持参した弁当を食べながら、山に自生する桜を愛でる「花見」の習慣は、江戸に町がつくられる以前から京都・大坂で人々に親しまれていたが、江戸では、桜の名所で飲み食いしながら騒いで楽しむ、春の友興の中心となった。武家でも大店の商家でも家臣や一族、奉公人が打ちそろって出かけ、さながら現代社会での会社の社員旅行や慰安会のような様相を呈していた。
自営の小商いの店がならぶ町屋でも、町内会ごとに世話役を設けて団体で出かけたし、長屋の住民も大家・店子が一緒になって花見に出かけた。つまり、江戸の住民はみんな花見に出かけたのである。江戸に暮らす人々にとって、花見は必須の行事だったというわけだ。
花を楽しむ時期は現在のような満開一歩手前のころではなく、満開をすぎて花が散るころが好まれた。散りゆく花びらの下で弁当を広げ、落ちてきた花びらを浮かべた酒を飲むことを、江戸の人々は最上の風雅ととらえていたからだ。また、花見の日は江戸の娘たちにとっては「玉の輿」に乗るチャンスでもあった。
身分の高い旗本や大店の宴席は花見幕と呼ばれた布で覆われていたが、庶民は毛せんやゴザを敷いただけでの酒食の宴である。そんななかホロ酔いで花見幕の切れ目から他家の宴席をのぞく若い武士や、そぞろ歩きの途中でよその町内の宴席に交じる若旦那も現れたりする。武士がそこで商家の娘を見初めたり、若旦那が日常生活ではけっしてつきあうことのない町娘に恋心を覚えることもあったのだ。そこで、江戸の娘たちは本来なら正月に新調する着物をこの時期まで我慢して、花見用の小袖をあつらえたりした。
花見の当日にその小袖を着て、見初められるかもしれないという期待感に胸をふくらませながら会場に向かったのである。

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2008-09-19

女性は相撲見物が許されなかった?

現代においても、女性が土俵に入ることは許されていないが、江戸時代には、それに加えて女性が相撲を見ることも許されていなかった。江戸時代の相撲は、勧進相撲といって、寺社を建立するための資金集めの一環として行われていた。つまり、ただの見世物ではなく、神事のひとつだった。そのため、相撲の本場所の観戦は、男性だけが許されていたのである。
また、相撲を興行するには、寺社奉行の許可が必要だった。勧進相撲という意味合いから、相撲の興行は、深川八幡、浅草大護院、芝明神など、それぞれの寺社の境内で、持ち回りで行われていた。そして、天明年間(1781~89年)以後になると、ほとんどの興行が両国の本所回向院の境内で行われるようになった。
そこで闘った江戸時代の力士の最高位は大関で、その後に関脇、小結と続き、これを三役といった。つまり、現在の力士の最高位である「横綱」という地位は存在しなかったのである。ただし、横綱という称号がなかったわけではない。江戸時代には、横綱という称号は別の意味で使われていた。江戸時代には、地鎮祭に力士を招いて四股踏みをする儀式があり、この儀式に注連縄をしめて出る資格を力士に与えることを「横綱の伝を免許する」といったという。
つまり「横綱」とは、地鎮祭の儀式に注連縄をしめて出る資格を与えられた者を指す。だから、人気も実力もある大関でも、横綱の称号を与えられなかった者がいた。これは、その力士に品格が備わっていなかったというようなことではなく、たまたま横綱の免許を与える機会がなかっただけというのが真相のようだ。ちなみに、本場所の観戦は女性に許されていなかったが、巡業である稽古相撲にかんしては、女性も観戦することができた。

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2008-09-17

「士農工商」の身分制度を人々はどう思っていた?

江戸時代において「士農工商」という身分制度が確立していたことはよく知られている。しかしじっさいには、身分制度は、それほど江戸の人々を束縛するものではなかった。たとえば寺子屋では、武士の子と町人の子が、机を並べて手習いをしていたし、道場では武士の子ばかりでなく町人の子も受け入れて、剣の修行をさせることに何の疑問も感じていなかった。
そのうち、寺子屋に優秀な子がいるらしい、剣術で並はずれて上達の速い少年がいるらしいと、寺子屋や道場に出入りする人たちの口に上るようになり、それが、子どものいない旗本の耳に入ったりする。その結果、養子縁組が決まり、瀬戸物屋の息子が旗本家の跡取りになり、やがて親の名跡(家督)を継いで幕府に出仕するようになる・・・・こんな話は、江戸の町では珍しいことではなかった。
地方ではもっとゆるやかだったようで、佐渡奉行所の役人のなかには漁師出身の門番から士分に取り立てられた例があったことが、当時の役人の経歴記録に残っている。佐渡は幕府の直轄地であるから、たとえ地方の現地採用で、生涯を佐渡で終える身分ではあっても「直参(将軍直属の家臣)だ。逆に江戸生まれの直参の子でありながら、医師になりたくて跡継ぎを断ったとか、絵師を目指して家を捨てたといった例もある。また、女性にしても、町屋の娘が大奥勤めで将軍の目にとまって側室となり、お世継ぎを産んだというような話がある。
これらの例を見ると、士農工商は順番がついているようだが、じつはただの職業区分にすぎない。出自の差が必ずしも身分差を生んでいたわけではなかった、ということがわかるだろう。

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2008-09-15

「斬り捨て御免」にも厳しい作法があった?

時代劇でよく見かけるシーンに、武士が町人を斬り捨てる「斬り捨て御免」がある。これは、身分の高い武士にたいして、身分の低い庶民が非礼をした場合、武士は庶民を斬り捨ててもよいという武士ならではの特権である。このような特権が与えられた理由は、「武士は食わねど高楊枝」ということわざがあるように、江戸時代武士にとって、名誉や体面が何よりも重んじられてたからである。裏を返せば、その名誉や体面を傷つけられれば、黙ってそれを見逃すことは武士らしからぬとされていた。そのため、武士は自分の誇りを守るために、刀を抜くことが認められていたのだ。
ただし、武士が怒りを感じたら、好きに斬り捨てていいというものではなかった。もし、武士が「斬り捨て御免」を実行したとしたら、その後、自分の行為を町の役人に届けなくてはならなかったのである。そこで、斬りつけた理由を説明し、さらに目撃者や関係者の話も参考にして、その正当性が吟味された。一般的には、武士にお咎めがいくことは少なかったが、問われる可能性はあったということだ。さらに、江戸の町民が被害者になると、話はややこしくなった。江戸の町民は、将軍の領民でもあるので、うかつに手を出せば大きな問題になった。また、江戸で罪のあるなしを決めるのは町奉行所の役目で、武士は縄をかけられて町奉行所まで連行され、そこで裁きを待たなくてはならなかった。
同じ江戸時代でも、中期以降、世の中が平和になり、町人などの力が強くなってくると、たとえ正当性があったとしても、即斬り捨て御免はしだいになくなっていった。逆にささいなことですぐに刀を抜こうとする武士は、臆病者呼ばわりされることもしばしばだった。したがって、「斬り捨て御免」の制度があっても、武士がそれを振りかざして横暴なふるまいをするということはむずかしかったようである。

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2008-09-13

「敵討ち」には、厳密なルールがあった?

250年以上もの長きにわたり、泰平の世が続いた江戸時代に、「武士の一分」を示す立派な行為、忠孝の教えの実践としてほめそやされたのが「敵討ち」である。逆に、親や主君を討たれたまま敵討ちをしなければ、武士の面目がたたず、臆病者として後ろ指を指された。敵討ちというと、曾我兄弟の敵討ち、赤穂浪士の討ち入りなどが知られている。幕府によって制度化され公認されるようになったのは、江戸時代に入ってからだ。
幕府公認の敵討ちとは、主君、父母、弟妹などが加害者を討つことだ。夫が、妻の不義を働いた者を討つ「妻敵討ち」もあった。世間から奨励された敵討ちだが、社会秩序を乱さないよう、それなりの作法やルールが決められていた。たとえば、目上のものが目下の者の敵を討つことは禁じられていた。つまり、子や弟妹が殺されても、親や兄姉による敵討ちは正当化されなかったのだ。また、正々堂々の果し合いや、主人が家来を成敗する手討ちによる場合も、その敵討ちは許されなかった。
また、敵討ちをする側を「討手」、討たれる側を「仇人」といったが、討ち手が返り討ちにあって、遺族がまた敵討ちをする「又候敵討ち」、打たれた仇人の遺族が討手を討つ、「重敵」も禁止されていた。さらに、敵討ちをするには、あらかじめ届けを出して幕府の許可を得なければならないルールがあった。敵討ちに成功しても届出を出していないと、殺人犯あつかいされたのである。
また、届出を出せば敵討ちの旅に出ることはできたが、仇人を探すのはひじょうにむずかしかった。仇人に出会う前に討ち手が死んでしまったり、捜しだしても仇人が死去していて本懐をとげることができないケースも多かった。敵討ちの成功率はほんのわずかだったのだ。それでも武士たちが敵討ちに出たのはなぜか。それが「武士の一分」なのである。命をかけてでも守らなければならない武士の面目や作法、そのためだったのだ。
江戸時代中期になると、この敵討ちは武士だけではなく、町民や農民まで行うようになった。町人、農民の場合は、届け出は必要なく、事後の取調べで敵討ちとわかってはじめて無罪になる決まりだった。

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2008-09-11

江戸時代の庶民は「苗字」を名のれなかった?

庶民が苗字を持つことができるようになったのは、明治時代になってからだと思ってる方が多いのではないだろうか。
じっさいには、江戸時代以前にも、庶民は苗字を持っていた。ただし、公に名乗ることができなかったのである。そのため、江戸時代の「検地帳」や「年貢割付帳」といった公文書には、庶民に苗字はなく、名前だけが記されている。では、公に名乗ることを許されていなかった江戸時代庶民は、どんなときに苗字を使ったのだろうか。
日常生活では、それほど遠方へ出かける機会のなかった農民や商人は、名前だけであれば事足りた。仮に同名の人がいたとしても、「○○村の××さん」で、その人を特定できたのだ。商人なら、屋号があったので、「○○屋の××さん」で区別できた。
庶民が苗字を使うのは、奉加帳(ほうかちょう。寺院や神社の造営・修繕・経典の刊行、一般行事などの事業にたいし、金品などの寄進等を行った人物の名称・品目・数量を記した帳面。寄進帳ともいう)に記名する場合や、墓石や供養等に記す場合などである。そのほか、俳諧などを詠む場合にも苗字を使っていた。
また、江戸中期には、苗字を名乗る権利をお金で買うことができた。本来、苗字を名乗ることができるのは、武家のみの特権だったが、藩の大名に献金することにより町民や商人でも苗字を名乗る権利を得ることができたのだ。この権利は、献金額に応じて「一代限り」「永代」などに分かれていた。

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2008-09-10

「左側通行」は武士の作法から生まれた?

現在の日本では、人が歩くときは右側通行と決められているが、江戸時代武士は左側通行が作法だった。というのも武士が右側を歩くと、困った事態が生じるからだ。
多くの武士は右利きだから、当然ながら刀は左側の腰に差している。この格好で右側を歩いていると、ほかの武士とすれ違うときに刀の鞘(さや)がぶつかり合うことがあるのだ。これは「鞘当て」といって、武士にとっては大変無礼なことで、斬り合いの原因になったのである。だが、左側を歩けば鞘はぶつかり合わずに済み、喧嘩は起こらない。
さらには、すれ違う相手を警戒することもできる。そして、左端を歩いていて、相手が右側から攻撃を仕掛けてきたら、すぐに刀を抜いて応戦できるし、防御態勢もとりやすい。そこで、武士が道を歩くときは、左側を歩くのが作法となったのである。この作法は、もともと殿中の廊下があまり広くなかったので、鞘当てが起こらないように、必ず左側を歩いたのがはじまり。それが道を歩くときの作法にもなった。
このほか、武士が歩くときの作法として、身分の高い者が左側に立つというものもあった。上司や身分の高い者と一緒に歩くときは、並ばずに相手の右側を一歩下って歩くのが礼儀だったのである。これは、叛意はないという証拠でもあったし、武士にとって左側が重要な位置であると考えられていたからでもあった。
日本の左側通行の習慣は、昭和の中ごろまで続いた。そして自動車が普及して左側を走るようになった昭和24年(1949年)に、車と同じ方向ではまずいと、人は右側を歩くことが道路交通法で決められた。

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江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

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