江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2008-10-31
「成人の儀」はどのように行われていた?

親類や知人のなかから選ばれた有力者の男性が、烏帽子(えぼし)親として介添え役をつとめ、吉日を選んで儀式が行われた。烏帽子親は、元服する者が前髪を剃ったあと、烏帽子を与える役目を持っていたためこのように呼ばれた。この烏帽子を与えるという動作をはじめ、小笠原流が伝える『元服之次第』には、儀式での服装、使う道具、髪を剃る作法から酒の交わし方まで元服のしきたりが細かく記されている。
しかし、現実にはこれらの儀式を完璧にこなすのは、将軍や有力な大名の家くらいであり、ふつうの武士の家では簡略化されるケースが多かったようだ。この簡略化されたしきたりのなかには、烏帽子を与えるという動作もふくまれている。江戸時代になると、現実には武士が烏帽子をかぶって正装する機会など、それこそ将軍か大名でもなければならなかったから、前髪を剃ったあと烏帽子をかぶり素襖(すおう、直垂(ひたたれ)の一種)・袴を身につけるという作法は行われなくなったのである。
時代は下り、江戸時代中期以降になると将軍ですら元服の儀式を簡略化するようになった。そのため、烏帽子親はその名が変り、元服親と呼ばれるようになった。烏帽子親は元服する武士に新しく名前をつける役目も担っていたからである。乳幼児の死亡率が高く、きちんと成人できるかどうか不安をかかえていた武家では、元服を、第二の誕生日と受けとめていた。そのため、元服のさい幼児期代の名前から新しく大人の名前につけかえたのである。
武士にとって元服とは、いわば“生まれ変わり”の儀式でもあったのだ。
スポンサーサイト
2008-10-29
女性の“成人式”だった「十三参り」?

数え年の13歳といえば、女性がちょうど初潮を見るころ。肉体的にも一人前の成人とみなしていい。だからこの年になると結婚も許されたのである。また、成人として結婚できる目安として、年齢のほかに家事がこなせることがあげられた。男は仕事で稼ぎ、女は家を守って家事を仕切るという役割分担がはっきりしていた江戸時代ならではの目安である。
そのため女の子は5歳になると針を持たされ、古布で雑巾を縫うことから裁縫の稽古をはじめた。家事のなかでも、裁縫の技術は嫁入りの必須条件として、重要視されたからである。運針がきちんとできるようになると、次は裁縫の師匠のところへ通う。少なくとも13歳の祝いまでに、ひととおりの技術を身につけておくためだ。その技術とは「単(ひとえ)の着物を一日で仕立てられること」が基準だった。
2008-10-27
七五三が11月15日に定められた理由とは?

それまでの七五三は、正月や誕生日など、それぞれの家がキリのよい日、縁起のよい日を選んで執り行っていた。それが11月15日と定まったのは天和元年(1681年)。五代将軍綱吉が、息子の徳松の祝い事をこの日に行ったため、子どもの成長を祝う日として習慣となった。綱吉がこの日を選んだのは、陰陽道が定めた最大吉日のひとつだったからだ。「大嘗会(だいじょうえ)」という天皇一代に一度しか行われない儀式も、たびたびこの日に行われている。
また、現代の日本ではズボンを左からはく人は多いが、この習慣は袴を左からはく決まりがあったことに関係しており、こうしたしきたりが江戸時代の七五三のひとつ、「男児五歳の袴着」に見ることができる。袴着では子どもを恵方に向かって碁盤の上に立たせ、袴をはかせる。そのとき、必ず左足からはくことが決まっていたのである。
そもそも、武家の礼法では行動を起こすときは必ず左足からというのが習わしだった。何かの行動を起こした瞬間は隙ができやすいので、いつでも刀を抜いて踏み出せるよう、右手右足を自由にしておかなければならないとされていたからである。そこで袴に足を通すときも、羽織の袖に手を通すときも、左が先と体に覚えこませたのだ。
2008-10-24
武士たちが恐れた「武家諸法度」の中身とは?

この『武家諸法度』は、法律というよりは、武士の心得を定めたものという性格が強かった。たとえば、「文武に心がける」「参勤交代を行う」「勝手に婚姻を結んではいけない」「勝手に城の修復をしてはいけない」「勝手に大型船をつくってはいけない」といった内容である。要は、幕府が大名を取り締まるためのものだから、何をするにも、まず幕府にお伺いを立てなさいという意味合いがこめられている。
もうひとつ、『武家諸法度』の特徴としてあげられるのが、ひじょうに大ざっぱで、基本的なことしか書かれていないということだ。「○○したら、処罰される」というような具体的な記述はまったくない。これは、幕府の解釈ひとつで、いかようにも処罰を決められるように、わざと基本的なことしか記してないのである。明文化していないので、そのときの幕府の判断によってどうにでも転ぶというわけだ。
大名は、同じような行動をとっても、お咎めを受けない場合もあれば、切腹やお家断絶などの厳しい処分となる場合もあり、まったく先が読めなかった。つねに幕府の顔色をうかがっていなくてはならず、反論することも許されない。幕府が大名統制のために定めた法律は、ひじょうにやっかいなものだった。
2008-10-21
諸大名が迷惑するほどの絶倫ぶりとは?

最初の子どもが生まれたのは、家斉17歳のとき。お相手は、薩摩藩主島津重豪(しげひで)の娘茂姫(しげひめ)で、子どもが生まれたのは華燭(かしょく)の典の翌月だ。つまり、二人は婚前交渉をシッカリすませていたことになる。以来、徳川家きっての性豪家斉は、40人もの側室を相手に励み、最終的に、なんと28男27女をもうけた。
55歳で最後の子どもが生まれるまで、子どもが生まれなかった年はわずか7年。多い年には4人の子どもが生まれている。途中で「このくらいでもういいか」と思わなかったところがエライというかスゴイ。
ところで、これほど多くの子どもたちは、その後、どう育てられたのだろうか?子どもの死亡率が高かった江戸時代、家斉ジュニアの約半数は幼くして亡くなり、無事に成人したのは25人。といっても、将軍家にそれだけの子どもがいれば、いろいろと面倒な話も起きかねない・・・・・。というわけで、嫁や婿として、各大名に押しつける格好になった。むろん、これは各大名にしてみれば、有難迷惑な話だった。
将軍家と縁組すれば、家格が上がり、徳川家の旧家の松平姓や、三つ葉葵の家紋の使用を許されるとメリットはあったが、その一方、婚礼などに莫大な費用がかかるし、正当な継承者が日陰者になるなど、デメリットのほうがはるかに大きかったのだ。しかも、嫁や婿を迎えるにあったては、幕府からさまざまに指図され、当然、トラブルもおきた。
家斉の九女を嫁に迎えた姫路の酒井家では、幕府の指示と違う新居をつくってしまったため、家老が切腹するという事態になっている。さらに、五女を迎えた佐賀鍋島藩では、出費がかさんで参勤交代ができなくなったり、水戸藩では養子を迎えるかどうかでモメにモメ、藩内分裂が起きている。このように、家斉のお気楽な子づくりは、諸大名のたいへんな負担を生んだ。
ちなみに、今や東大のシンボルである「赤門」は、34番目の溶姫(やすひめ)が、加賀の前田家に嫁ぐときの専用で入り口として建てられたものである。
2008-10-19
やっぱり夜も“暴れん坊将軍”だった?

将軍吉宗は、目安箱の設置や新田開発の推進といった享保の改革を行って、破綻寸前の幕府財政を再建した人物。時代劇でおなじみの名奉行大岡忠相を登用したのも彼である。しかし、この名君も、性生活においては文字どおり“暴れん坊将軍”だったとみえる。
たとえば、少年時代の吉宗が、紀州徳川家家老加納将監の家で養育されていたときのこと。当時まだ12歳だった吉宗は、加納家の女中を妊娠させたうえ、自分の母親の侍女にまで手を出した。さらに、16歳のときに狩りに出た先で、山伏の娘を妊娠させたとも伝えられている。そんな非行少年が、のちに「江戸幕府中興の祖」とたたえられるほどの名君となるのだから、人間とは不思議なものである。
ただし、そんな悪ガキ時代を暴くかのような事件が、吉宗の治世に起きている。「天一坊事件」と呼ばれる有名な事件だ。同時代の資料によると、事件が発覚したのは、享保14年(1729年)3月、関東郡代伊奈半左衛門の用人のもとに、とある浪人が問い合わせに訪れたためだった。その浪人によると、品川宿の常楽院という山伏のもとに、天一坊なる男がいて、「われは将軍のご落胤なり」と自称し、近々大名になるといって家臣を集めているという。浪人は、その話が本当かどうか尋ねに来たのだった。
もちろん、詐欺師天一坊は捕らえられて調べ上げられ、翌月死罪となった。捜査の結果、吉宗の子でもなんでもないことがわかったからだが、吉宗は陰で胸をなでおろしたに違いない。
2008-10-18
「犬公方」と呼ばれた将軍は、夜も“お犬様スタイル”がお好き?

そもそも、彼の父親である三代将軍家光からして、男好きで知られていたが、綱吉のそれは父親をはるかにしのいでいた。その証拠に、小姓の数が130人と歴代の将軍に比べてやたらと多かった。もちろん、彼らは、綱吉と寝床をともにするために選ばれた美少年たちである。
『三王外記』という著者不明の史書は、次のように暴露している。「将軍綱吉は若者を好んだ。彼らの大部分は色をもって昇進した」
じっさい、綱吉の治世では、12名の小姓が大名に取り立てられるなど、異例の大出世を果たす者が多かった。その筆頭が、わずか50石のから甲府の15万石に成り上がった柳沢吉保。吉保も、おそらく将軍の相手をつとめた一人だったことは間違いない。さらに、『三王外記』はこう続ける。「数十人もの小姓のうち20人余がとくに寵愛されて、柳沢吉保の邸宅に住まされた」
柳沢邸といえば、東京駒込の「六義園」が有名だが、綱吉のために使われた邸宅がどこをさしているかははっきりしない。ともあれ、美少年たちは男ばかりの“大奥”で吉保の家来の監督のもと、さまざまな教育をほどこされた。たとえば、綱吉はスリムな体型を好んだので、食生活を厳しく管理された。また、江戸城と柳沢邸の往復には厳しい監視がついていて、人と会っても口を利くことはできなかった。大奥と同じく、貞操を強いられていたのである。
こうして立派に“調教”された青少年たちは、綱吉の夜のお相手をつとめると、反物や道具類を与えられた。なお、本丸からは、そのほかにも毎度運び出されるものがあった。綱吉が小姓と交わったときに使った、寝間着や布団である。極度の潔癖症だったといわれる綱吉は、夜の汚れ物を江戸城の蔵に封印させていた。なぜ、それらを洗濯するなり、捨てるなりしなかったかは判然としない。
その「御穢れ物」は、綱吉の在世中は蔵のなかに封印され続け、綱吉の死後に芝の増上寺で焼かれた。
2008-10-16
「生まれながらの将軍」は「生まれながらの男色家」だった?

家光は、竹千代と呼ばれていた幼年期に、踊りに熱中していたという。当時の江戸では、女歌舞伎が風紀を乱すとして禁止された(1629年)ことから、若衆歌舞伎(少年俳優の演じる歌舞伎)が盛んだったが、竹千代はこれに大いに関心を寄せ、自分も美しく化粧をし、しなをつくって歌舞伎踊りの真似事をしていたのだ。幼いころから、すでにその“素質”はあったようだが、性生活のスタートとともに、彼は男色にのめり込むことになる。
幕府の記録『徳川実記』によると、家光は16歳のとき、坂部五右衛門という小姓を浴室で手討ちにしたという。理由についてはあいまいに書かれているが、「これは主君を犯し奉る天罰なるべし」とあるところからみると、入浴中の家光とコトに及ぼうとしていたらしい。一説によると、家光は五右衛門が同輩と戯れあっていたのを知り、嫉妬のあまり彼を手討ちにしたとされる。
また、青年時代の家光は、三つ下の小姓酒井重澄がことのほかお気に入りで、重澄の家にしばしば夜這いに出かけた。おかげで重澄は、10代の若さで、下総生実2万5000石を領する大名に出世した。しかし、この重澄、27歳のときに病気療養を理由に屋敷に引きこもり、こっそりと妻妾との間に4人の子をもうけた。ところが、これが家光にバレたから大変。とたんに所領を没収されてしまう。先の五右衛門の件といい、家光はひじょうに嫉妬深い男だったとみえる。
当然ながら、家臣たちは、こんな調子で男色にふける家光を心配した。とくに、家光の乳母春日野局は、家光がまったく大奥に足を運ぼうとしないことにあせり、「これでは、お世継ぎができませぬ」と、京都からとびきりの美女を呼び寄せた。そのかいあって、家光はしだいに女性にも関心をもつようになり、お楽の方との間に家綱(四代将軍)を、お玉の方との間に綱吉(五代将軍)を、お夏の方との間に綱重(六代将軍家宣の父)をもうけた。
周囲の気をもませつつも、家光は、将軍として果たすべき務めは、きちんと果たしたのである。
2008-10-14
遊女はどのようにダイエットを行った?

たとえば、井原西鶴の『好色一代男』には、京遊女のダイエットの様子が描かれている。「かほはゆげむしたて、手に指をかねささせ、足には革踏をはかせながら寝させて、髪はさねかづらの雫にすきなし、身はあらひ粉たやさず、二度の喰物」
つまり、顔は湯気で蒸して手入れし、指には金の筒をはめ、足には革の足袋をはいて、指や足が太らないようにしていた。さらに、髪の毛は、さねかずらの汁ですき、体をヌカ袋で磨いて、食事は二度に制限していた・・・・・・というものだ。
西鶴はまた、「生まれながらにして美しい女はめったにいない」とも書いている。遊女たちは、こうして顔や体に磨きをかけて、男たちの心をつかんでいたのである。
2008-10-11
「○○命」のルーツは江戸の遊女たちだった?

江戸の遊女たちは、恋愛を禁じられていた。遊女は、借金と引き換えに売られてきた身であり、その借金を返し終えるまでは遊女として身を売り続けなければならない。そのため、駆け落ちや心中の原因となる恋愛沙汰は、一切禁止されていたのだ。借金を返し終わる前に男と逃げられたのでは、置屋としては大損をこうむることになるからである。
しかし、遊女といえども、若い娘たち。なじみとなったお客に、好意も抱けば恋もする。その恋をひた隠し、身を売り続けなければならなかった彼女たちは、二の腕に「○○さま命」と刺青をした。そして「体は売っても、心は売らぬ」という証しにしたのである。これは「心中立て」と呼ばれ、惚れた男に名前を書いてもらい、その筆跡のまま彫り込んでいた。刺青は、一度彫り込むと消せないから、彼女たちにとっても命がけの行為だった。
ほかに、当時の遊女たちの間ではやった心中立てには、爪はぎや指切りがあった。指切りは、自分の指を本当に切り落とすのだが、この習慣が現在に伝わり、約束の印として小指と小指をからませる「指切り」となっている。
もっとも、遊女にもいろんな人がいて、死刑囚の指をもらってきて、それを自分の指だといってお客をだます者もいたという。
Powered by FC2 Blog
Copyright © 江戸散歩 All Rights Reserved.