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江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


2008-11-29

ただ殺すだけではすまない、江戸時代の死刑あれこれ!

現在の日本の死刑といえば、絞首刑のことをさす。しかし、この絞首刑が取り入れられたのは明治以降であるため、江戸時代には絞首刑という刑罰は存在しなかった。では、江戸時代の死刑はどのように行われていたのだろうか。じつは、江戸時代の死刑をひと言で説明するのはむずかしい。なぜなら、江戸時代の死刑は現在のように一種類だけではなく、何種類もあったからである。そのなかから、罪人の罪の重さに応じて、死刑方法が選ばれたのだ。
たとえば、もっともおだやかな死刑は「下手人」と呼ばれるもので、斬首の刑に処された。これが「死罪」という死刑になると、斬首のあとの試し斬りが追加される。また「磔刑(たつけい)」という死刑では、町中を引きずりまわされたあと、十字架に体を縛りつけられ、左右から槍で突かれて絶命させられた。
そんななか、もっとも残酷だと思われる死刑は「鋸挽(のこびき)」と呼ばれるものだった。その手順を追っていくと、まずは罪人の両肩を切りつけ、その血をつけた鋸とともにさらしておく。その後、罪人は首だけ出して埋められる。そして、そこを通る者が、思い思いに罪人の首を置いてある鋸で挽く。最後は磔刑と同じく、町中を引きずりまわされたあと、磔にされ絶命させられた。この罪は主殺しをした者に科せられた。ほかにも、火あぶりにされる「火罪」や、斬り落とされた首がさらされる「獄門」という死刑があった。江戸時代の刑罰には見せしめとしての意味合いが大きく、その傾向はこれらの死刑にも見ることができる。
また、これらの死刑は江戸中期以降、世の中が比較的平和な時代の方法であり、それ以前はさらに残酷な死刑が横行していた。たとえば、釜に罪人を入れて下から熱する「釜煎(かまいり)」や釜のなかで煮殺す「釜茹(かまゆで)」、それぞれの足を二頭の牛に反対方向へ引かせて体を引き裂く「牛裂」、牛の代わりに車を使う「車裂」、ムシロで体を巻いて水中に投げ込み溺れさせる「簀巻(すまき)などがあった。
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2008-11-27

大名が江戸城の役人にゴマをすったワケとは?

老中や若年寄といった幕府の要職に就いている大名は、江戸城内で働いているので毎日登城するが、幕府内に職務のない大名は式日などにたまに登城するだけだった。それなのに、登城時は大名という立場から、供をそろえて行列を仕立てなくてはならなかったというのだから大変だった。さらには、そうやってわざわざそろえた供であっても大手門をくぐるときには、外に残していかなかればならなかった。いくら江戸城が広いとはいえ、多数の大名がそれぞれ持つ大勢の家臣まではすべて収容できないからだ。
大名は駕籠から降り、ひとりで城内に入る。すると、日ごろは何もかも家臣まかせの大名は、ひとりでは何もできない。ましてや慣れない城内である。その手助けをするために江戸城にいたのが「お城坊主」。いわば大名の世話係である。小間使いのような存在で、お城勤めの役人としては下っ端だが、彼らの力は大きかった。なにしろ間違った作法を教えるなどして、大名に恥をかかせることもできたからである。大名のほうが萎縮してゴマをすらねばならないほどだった。
そのゴマすりの代表がお城坊主からのチップの要求に応えることだった。お城坊主は、城内では請求しづらいので、後日大名の屋敷を訪ねて集金して回ったという。。お城坊主の訪問を受けた屋敷では、主君が恥をかいては困るので、家臣がこっそり渡すのがしきたりだった。
このようにして、大名からお金をせしめるお城坊主の最大の稼ぎどきは正月だった。正月に大名の屋敷を訪ね、部屋にある調度品などをさりげなくほめるのだ。
お城坊主を最大限もてなさなければならない大名は、ほめられれば「与える」といわざるをえない。それを承知で大名のほうもたいしたものは部屋には飾らなかったというが、お城坊主は自分が担当する大名の屋敷をいくつか回ればそれなりの役得にありつけたのである。

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2008-11-24

江戸城に登城するさいの大名のしきたりとは?

厳しい身分制度が敷かれていた江戸時代、将軍に直接仕える者といえば大名である。大名とは、禄高一万石以上を持つ者をいい、将軍に拝謁できた。さらに、大名ではないが、一万石以下でも将軍に拝謁できるのが旗本、拝謁できない者は御家人といった。
大名は、元旦や五節句などの幕府にとって重要な日や、月次登城といわれる月例の登城日に江戸城に登城する必要があった。この登城のさいには、身分や城持ちか無城かなどの家格によって、控えの間も厳密に区別されていた。「大廊下」は、もっとも家格が高い御三家の控えの間であり、御三家の次に家格が高い加賀前田家、越前松平家、鷹司松平家もここに詰めていた。「大広間」は10万石以上の外様大名である島津家、伊達家、細川家の分家の控えの間であった。
また、「帝鑑(ていかん)の間」は城持ちの譜代大名や旧臣、水戸徳川家や越前松平家の分家の控えの間。「柳の間」は10万石未満の外様大名、表高家などの控えの間であった。「溜(たまり)の間」は、彦根井伊家、会津松平家、高松松平家のほか、10万石以上の譜代大名の定席である。そして、「雁の間」には10万石未満の譜代大名や高家などが控える。「菊の間」は無城で2万石以下の譜代大名や大番頭、書院番頭、小姓組番頭などが詰めた、という具合に細かく区別がなされていたのだ。その上、それぞれの控えの間のなかで、将軍に拝謁するときの座る位置まで決められていた。
さらに、大名たちは朝廷からもらう官位によって、登城するときの衣装が細かく定められていた。官位は一位から八位まであり、宮中に上がれるのは従五位下以上の者であった。大名はすべて従五位下以上である。
江戸城に登城すれば、大名たちはいやがうえにも、自分の家格をまざまざと見せつけられていたのである。

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2008-11-22

切腹は「腹を切らないのが作法」だって?

武士道では、切腹が最高の死に方とされた。腹を切る死に方は諸外国にもあるというが、切腹という作法が定められて、法律で制度化されたのは日本の武士の世界だけである。では、なぜ切腹という方法が生まれたのだろうか。これには、まず、生命の根源は腹部にあるという思想があった。ここを切り開いて腹のなかを見せ、身の潔白を証明することが、武士の名誉や勇気を示すことになったのである。
武士の切腹は、時代によって意味合いが微妙にちがっている。源平時代は、朝廷にたいして謀反心がないことを示すため、南北朝時代は、敗者が最後の武勇を示すため、戦国時代には敗者が責任を負うため、というように変ってくる。そして戦国時代末期には、切腹が武士の名誉ある刑となり、その作法も確率した。
切腹の作法とは、まず、切腹人は湯で体を清め白無垢、無紋の裃を身につけ、北面して座し、末期の水を二口飲む。末期の水とは、死にゆく人の喉の渇きを癒すための水のことである。次に「三方」と呼ばれる台に載せた切腹刀が運ばれてきたら、切腹人は検使に目礼、前を押し広げ、三方を少し手前に引き、左手で切腹刀を取り上げ、右手を下から添えて目の高さにおしいただく。切腹刀を右手に持ち替え、左手でへその上を三度なで、一気に切っ先を左わき腹に突き立てる。そのまま右腹まで引きまわす。そして刀をいったん抜き、持ち替えて刃を下にし、みぞおちへ切っ先を突き立てて、へその下まで切り下げる。それでも絶命しなっかたら、喉を突く。
介錯人は切腹人の左斜め後ろの立ち、切腹人の呼吸をはかって一気に首を切り落とす。検使が首を確かめて切腹は終わる。
だが、この作法は、じっさいにはむずかしく、切腹刀を腹に突き立てるのは容易ではなかったという。さらに刀を引きまわすときは、大変な苦痛をともない、多くの場合切り口からは内臓が飛び出した。なかには、切った腹から自分の腸を引っ張り出し、潔白を証明する者もいた。だが、江戸時代には、じっさいには腹を切らないことのほうが多かったようだ。切腹人が小刀を取ろうと手を伸ばしたところで介錯人が首を切り落とした。また、小刀の代わりに白扇を使い、これをおしいただいた瞬間に、首を打ち落とすという方法もとられた。

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2008-11-19

奉公人の出世競争はこんなに過酷だった?

長屋に住む庶民の子どもたちの多くは、10歳前後になると、大きな商家などに奉公に出された。関西では「丁稚」、関東では「小僧」から奉公はスタートする。
修行時代は厳しく、10年間はご飯を食べさせてもらいながら「行儀見習い」ということで無給。さらに、最初の3年間、里心がついてはいけないというので、実家に帰ることは許されなかった。3年がすぎると休みがもらえたが、正月と盆の年2回だけ。それも一日だけか多くても三日しかなかった。この年に2回の休みを薮入りといった。
正月の薮入りは1月16日、盆の薮入りは7月16日で、店の主人から着物と小づかいをもらい、親のもとに帰った。遠方の子は、薮入り短い期間では帰ることができないので、「請け人」という保証人のところに挨拶に行くだけだった。
小僧の仕事はおもに雑用で、お使い、掃除、水まき、主人のお供など。そのあいだに商売を見て習い、夜は手代や番頭に「読み書きそろばん」の勉強を教わった。だから外で遊ぶひまなどなかったのである。
5年から9年の奉公期間で手代に出世する者もいたが、その人数は、小僧の3分の1くらいでしかなかった。手代になると足袋がはけるようになり、年4両の給料も出た。さらには「初登り」という40~60日間もの長期休暇がもらえて、国に帰ることも許された。しかし、帰郷しているときに、店から呼び出しの書状がくれば昇格だが、呼び出しがかからず、そのまま解雇されることもあった。解雇されてしまったら、再就職することは不可能だった。どんな店でも、ほかの店で解雇された者は絶対に雇わなかったからである。
この「」登りが5年~6年ごとにあり、それにパスすると番頭に進む道が開ける。だが、これも狭き門で、番頭になれるのは20人に1人程度。番頭に昇格すれば、晴れて妻を娶り、家を持つことができる。とはいえ、妻は店の主人が国元から選ぶため、好き勝手というわけにはいかなかった。
現代のビジネスマンと江戸の奉公人、どちらの仕事のほうがきついだろうか。

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2008-11-15

とことんまで使い切る驚きの江戸リサイクル事情?

江戸時代庶民の生活は、いまでいうリサイクル社会の理想モデルだった。現代とはちがう点は、現代のリサイクルはゴミを減らすことが大きな目的だが、江戸の町では、物を最後まで使いつくすという考え方が主流だったということだ。
江戸庶民は、物を使い捨てることなどけっしてしなかった。いまよりはるかに物のない時代である。江戸庶民は頭をひねり、少ない物をとことん使いきっていたのだ。その賢い知恵には、文明社会の我々もかなわない。まず、再利用の習慣が徹底していた。とくに衣類は大切にされ、くり返し着まわした。古着は洗い張り(糸を一度解いて着物をバラバラにし、反物の状態にして洗う)をし、ほかの着物に仕立て直した。ボロになった布は、雑巾、紐、下駄の鼻緒などに使いまわしてとことん再利用した。
当然、着古した衣類をあつかう店や市場もでき、おおいに繁盛した。それが質屋や古着市だった。江戸の古着屋は、衣類をさらに地方に運んで刺子(布地を補強するために細かく刺し縫いした衣服)などに再利用した。紙も大事にされ、書き物に使った紙は捨てずに、襖の下張りや、梱包紙。こよりなどに再利用。使い切ってやっとゴミになった紙くずは、紙くず買いが買って再生業者に渡し、漉返紙(漉きなおしてつくった中古の和紙)に再利用されて売られた。
鍋・釜の鉄製品は溶解して、ふたたび鉄商品にして再利用。川の底に捨てられた鉄まで拾い上げる「よなげ屋」という業者まで生まれた。そのほか、古がね買い、蝋買い、樽買い、古傘買いなどの、古物を買って再生する商売も繁盛した。
また、こわれた物を修理して使う習慣も励行されていたため、修理業者が多く活躍した。煙管の管を取り替える羅宇屋(らおや)、鍋・釜を修理する鋳掛屋(いかけや)、下駄を修理する雪駄直しなどが店を出した。桶屋は桶の箍(たが)を掛け替え、提灯屋は提灯の張替えをした。欠けたりヒビの入った陶器の修理は焼接屋(やきつぎや)が行った。そのほか、こたつのやぐらを修繕するやぐら直し、そろばん直し、椀直しなど、暮らしに必要なあらゆる道具の修理やが、江戸の町では大活躍していた。
これだけ徹底したエコ社会であれば、江戸の町にはゴミなどほとんどなかったように思える。しかし、それでもゴミを川筋に捨てる者がいたようで、幕府は永代島をゴミ捨て場にするというお触れを出している。すると、江戸中のゴミ捨てと永代島の土ざらいを請け負い、海を埋め立てて新田を造成する業者が現れた。江戸ではゴミまでも再利用されたのである。

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2008-11-12

イキな計らいも多かった質屋の人情あふれる商法?

目覚しい経済発展をとげた江戸の町だったが、商人たちが豊かになっていくのとは対照的に、武家の生活はしだいに困窮の一途をたどり、庶民の大多数もけっして楽な暮らしではなかった。そんな町民や武士たちが、もっぱら頼りにしたのが質屋であった。現代の金融業者とはちがい、江戸の質屋は義理人情もあれば、信用で粋なはからいもしてくれた。また、質草の取りあつかいにも面白いしきたりがあった。
まず、質に入れてはならないのは物があった。武具、鎧兜などと、徳川将軍家、尾張・紀伊・水戸の御三家、諸大名の紋所のある品の質入は厳禁とされた。刀を預かるときは、縁頭(刀と縁と柄頭につける金具)の材質と彫り、目貫(刀身が柄から外れないように、留め釘をさしこむ穴)の材質と形、刀身の長さ、鞘の色模様などをくわしく記述しなければならなかったが、銘(製造者名)は入っていても、絶対に書き記してはならなかった。また、旗本の紋が入ったものを質草にしてはならないという決まりがあったが、現実には、質蔵には旗本の紋のついた品があったというから、旗本の困窮ぶりがわかる。
旗本がお金に困ったときは、長持(衣服などを入れて保管したり運搬したりする箱)に紙くずを入れて質屋に持ちこむこともあった。質屋は、中身が紙くずとわかっていても金を貸した。紙くずの入った質草を流してしまったら、いうまでもなくその旗本の家名に傷がつく。家名にかかわることから“信用”で金を貸したのだ。さらに、金銀や、豪奢なものも質草として禁じられていた。
おかしな質草として、ふんどしがある。宿場の駕籠かきたちは、金がないと自分のふんどしを質に入れた。質屋も、このふんどしで1分の金(1両の4分の1)を貸したというから、きっぷがいい。ふんどしを質に入れた駕籠かきは、新しいふんどしを締めることは許されなかった。これは駕籠かき仲間の掟で、破れば仲間からリンチを受けることになったという。質屋も、この駕籠かきたちの仁義にたいして金を貸していたからだ。
もっとおかしな質草は、職人たちの月代で、職人たちは自分の月代を質に入れした。これも受け出すまでは、絶対に月代を剃ってはならなかった。粋を尊び、月代の剃り方にもこだわる江戸っ子にとって、これは、さぞ、つらかっただろう。

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2008-11-10

節分の豆まきは12月に行われていた?

今日では「鬼は外、福は内!」と声をあげながら豆まきをする節分は、立春の前日にあたる2月3日前後である。しかし、江戸時代は12月に、新年を迎える行事のひとつとしてとりおこなっていた。
そもそも、節分の豆まきは平安時代の大晦日の宮中行事である「鬼やらい」を受け継いでいる。鬼やらいとは鬼に扮した者に豆を投げつけて追い払うという行事。新年を迎えるにあたり、鬼が象徴している病気や災害などの災厄が来ないよう追い払い、新年の福を迎えようとした。江戸時代でもそれは変らず、師走のあわただしいなか、豆まきが行われていた。
それがなぜ現在のように2月に行われるようになったのだろうか。これには、明治維新で旧暦が新暦に変ったことが関係している。旧暦では節分は12月の12日から28日あたりに迎えていたが、新暦になると立春が2月になったため、その前日にあたる節分も同様に12月から2月になったのだ。いまでも年賀状に「新春」や「初春」「迎春」という言葉を使った挨拶文を書くのは、正月がすでに暦の上では春になっていた旧暦時代の名残なのである。
節分とは、元来が春夏秋冬の四季を暦のうえで区分する立春・立夏・立秋・立冬の前日をさし、年に4回ある。それが冬と春を分ける節分にだけ豆まきという行事が生まれたのは、新年を迎えるための儀式だったからだ。江戸の町家では、厄を払う豆をまくほか、悪霊払いに効き目があるといわれるヒイラギの葉にイワシの頭を刺して門口に吊るしたりした。また現代と同様に、自分の年齢よりひとつ多い数の豆を食べた。
豆には再生・増殖の霊力があると信じられていて、年齢を重ねて磨り減った力を豆で補い、さらにひとつ多く食べることで新年の活力を得られると考えられていたのである。

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2008-11-08

酉の市の「熊手」に込められた意味とは?

「酉の市」と聞くと、いよいよ年末が近いことを実感して、正月を迎える準備に心急かされる商売人が少なくない。酉の市とは、11月の酉の日に各地にある大鳥(鷲)神社で立つ市のこと。この市では、商売や飲食店の経営者などが、さまざまな飾り付けがなされた熊手を買い求め、商売繁盛を願った。
酉の市のルーツは江戸時代にある。享保20年(1735年)に江戸郊外の花又村(現在の足立区花畑)にあった鷲大明神の祭礼のときに立った市がはじまりといわれている。その祭礼は農村の収穫祭として行われたもので、鶏を奉納するためにやってくる人を相手に、農機具や農作物、その他の雑貨や古着までを売る市が出たのが最初だった。そのなかには、竹製のほうきやザルに交じって、落ち葉をかき集めるの都合のいい熊手もあった。そして熊手は、「福をかきこむ」「運を取りこむ」道具として、しだいに縁起物とみなされるようになり、酉の市の目玉商品に育っていった。
おかげで市はにぎわい、賭博が開帳されるほど人を集めたことが、幕府によって禁止令が出されたという記録からもうかがい知ることができる。さらに、熊手にはいろいろな工夫が凝らされるようになり、宝船に乗った七福神というおなじみの絵柄や、米俵と稲穂、大判小判、松竹梅、メデタイにかけた鯛。さらには、望みがかなうという伝説の打ち出の小槌や招福を象徴するといわれているお多福の面など、江戸庶民が喜びそうな、考えつく限りの飾りつけが施されていった。
花又の鷲神社にはじまった市は、やがて熊手人気とともに、浅草をはじめ、巣鴨、四谷、深川といった江戸で「おおとり」を名乗るほかの神社でも開かれるようになった。その伝統を受け継いで、いまでもにぎわい続けている一番人気は、浅草の鷲神社で開かれている酉の市だ。熊手はできるだけ値切って買うものという江戸時代の習慣にもとづき、売り手との交渉を楽しむ人も少なくない。その交渉が成立したとき、市の売り手がシャンシャンと手拍子してくれるしきたりも昔ながらである。

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2008-11-05

江戸時代に存在していた「エッチ御法度」の日?

江戸時代庶民のあいだで広く支持されたのが庚申(こうしん)信仰である。庚申信仰では、人間の体にには「三尸(さんり)」という三匹の虫がいると信じられていた。この虫は60日に一度訪れる庚申の夜、眠っている人間の体から抜け出して天に昇り、天帝にその人間の犯した事態を告げ口する。そして、告げ口を聞いた天帝によって、その人間の寿命が縮められてしまうといわれていた。そこから人々の長寿願望と結びついて信仰されるようになったのである。
信仰している人たちは、庚申の日の夜は眠ってはいけないとされていた。眠ればそのあいだに三尸が体内から出ていってしまうからだ。そのため、庚申の日は、夜を徹して三尸を見張るというしきたりができた。この行為を「庚申待ち」と呼び、これを3回続けると虫は萎縮してしまい、7回続けると退治できるとされていた。
さらに、庚申待ちの夜には絶対の禁忌があって、たとえ起きていても、針仕事などの夜なべ仕事をしてはいけない。また、セックスもしてはいけないといわれていた。そして、庚申の夜に交わらないという禁忌を破った男女から生まれた子どもは、成長してから盗人になると信じられていたのである。

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江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

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