江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2009-03-25
現代とはまったく違う!江戸時代のお見合い事情?

見合いの使われる場所は、社寺の境内にある茶屋など、人がたくさん集まる場所にある店が選ばれた。浅草寺や上野寛永寺、両国の回向院などであった。それぞれの家が、家族で参詣に訪れた帰りの立ち寄ったというような偶然を装って、同じ店に入るというセッティングがよく使われた。
また裕福な商家などの場合、芝居見物をお見合いに使うことも。あったそれぞれの家が少し離れた桟敷席を予約しておき、芝居の上演中にチラチラと相手を盗み見るといった調子であった。
こうしたお見合いで縁組がととのうと結納の運びとなり、男性側が女性宅を訪れる。しかし、この儀礼には結婚する当事者は居合わせない。このあと女性は持参金つきで嫁入りをするのがふつうで、その持参金の一割が、仲人に謝礼として払われる習わしだった。
こうした見合い結婚がふえると、やがて仲人を専門の職業にする人が現れる。彼らが報酬を得るためには、なんとか縁組をととのえて婚礼までこぎつけなければならない。そこで、あれこれ言葉を飾って当事者をほめることになる。ここから生まれたのが「仲人口」という言葉である。
なお、こうしてまとまった縁組でも、結婚生活がうまくいかず、不幸にして離縁になることはあった。そんなとき、嫁に落ち度がなければ、持参金は全額婿の家から返却されるのが決まりだった。
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2009-03-12
現代も変ってない?江戸の官官接待の実態

大庄屋とは、江戸時代にいくつもの村を支配していた村役人である。鳥取藩は接待係を大庄屋に命じ、それをうけた大庄屋は、巡見使を接待するさいの想定問答集をつくって藩に送り、藩側は模範解答などを朱文字で書きこんで大庄屋に送り返していた。その問答集が発見された古文書のなかにふくまれていたのである。そこには、治安のよさをアピールするために、「囚人はひとりもいないと答えよ」といった一文があった。また問答集には、お隣の津山藩が巡見使に出した献立も書かれていた。それによると、幕府は「一汁一葉」でよいとしていたのに、タイやくらげなどの刺し身のほか、肉料理、煮物なども出していたことがわかった。
この古文書の発見によって、巡見使を接待する鳥取藩の気苦労と、「官官接待」の様子が赤裸々に浮かび上がってきたのである。これは鳥取藩と津山藩の例であるが、江戸でも幕府の高官への接待は、かなりお金をかけて行われていたという記録も残っている。賄賂がさかんに贈られたのは、明和から天明年間の田沼意次の時代で、「田沼時代」といわれるほど権勢を誇ったときのことだ。田沼は幕府の財政悪化をくいとめるため、株仲間の結成など数々の改革を行った。しかし、そのいっぽうで金銭中心の世の中になって、賄賂が横行したのだ。
たとえば、京都の遊女を箱に入れ、「京人形」と上書きしたものが贈られてきたり、籠に魚のキス7~8尾と野菜を少しのせ、小刀をさしただけのものが贈られてきたので、簡単な贈り物かと思っていたら、なんと時価数十両もの小刀だった、という話も伝えられている。また幕府の役人は、検地や年貢率を決めるために行う検見のときに農村に出向いたが、この検地役人を迎える農村は接待におおわらわだったようだ。記録によると、年貢率を低く抑えてもらいたい一心で、かなりの賄賂が行われていたとある。検見法には抜け道も多く、役人の不正も多かったといわれている。
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