江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-03-13

大名や旗本は、どんな基準で「○○守」をなのった?

江戸時代の大名や旗本は「○○守(かみ)」と名乗っていた。たとえば、二代将軍秀忠に新陰流を教えた柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は「但馬守(たじまのかみ)。島原の乱を鎮めた松平信網は「伊豆守(いずのかみ)」と名乗り、「知恵伊豆」とあだ名された。
この「守」は、彼らの領国とは何の関係もない。柳生但馬守宗矩は大和柳生の藩主で、兵庫県の但馬とは何の関係もない。松平伊豆守信網は武蔵川越の藩主で、これまた静岡県の伊豆とは関係はない。
「守」は、もとは平安時代の律令制の地方長官を指し、朝廷が任命するものだった。ところが、律令制が崩壊し、武士が台頭する中、「守」という官職は有名無実化。勝手に名乗る者が増えていく。戦国時代には、すでに織田信長が羽柴秀吉に筑前守(ちくぜんのかみ)、明智光秀に日向守(ひゅうがのかみ)を勝手に与えている。
江戸時代になると、老中の裁可を得るだけで、「○○守」と名乗れるようになり、これを「守名乗(かみなの)り」といった。もちろん、誰もが「守名乗り」をできるわけでもなく、大名か3000石以上の旗本に限られた。
「○○守」の「○○」は、一部の例外を除いて、どこの国でもよかった。例外は、武蔵、尾張、三河、薩摩である。武蔵は、徳川将軍家との関係から禁じられていた。同じように、尾張は尾張徳川家、三河は徳川家康の誕生した松平家、薩摩は名門・島津家への配慮から使えなかった。また、同姓どうしで、同じ守の名を名乗ることもできなかった。
基本的には父親の「守」の名を引き継ぐことが多かったが、自分の趣味で選ぶこともできた。その場合、事前に老中に報告しておけば、すぐに許可をもらえた。
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