江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2007-11-01

女の園「大奥」のアイディアは誰が考えた?

江戸城にあって、男子禁制の女の園「大奥」。
その大奥は、江戸城本丸御殿の一部である。本丸御殿は三つに区分され、
老中らが執務し政庁の役目を果たす「表」。将軍の御座所である「中奥」。そして「大奥」に分かれていた。
大奥には、ご存知のように、将軍の正室や側室、彼女らに使える女官がいた。
大奥の仕組みは、豊臣秀吉の大阪城の御殿を真似たものだ。
大阪城では、政治を司る表向き、妻や側室のいる奥向きに厳重に分けられていた。江戸城もそのシステムを踏襲したのだ。
そして、二代将軍・秀忠が江戸城を増築した際、奥向きを「大奥」という名に変えた。ほかの大名には、この大奥という言葉を使うことを許さなかった。
男子禁制など、大奥の規制を定めた「大奥法度」が定められたのは、1618年(元和4年)のこと。
こ大奥法度をもとに、三代家光の乳母であった春日局が大奥の制度を整えていく。
春日局は、1623年(元和9年)、家光が三代将軍となった際、大奥の御年寄に任じられる。以降、大奥を取り仕切る実力者となり、その威光は、家光でさえ大奥の女官の処分に関して、春日局との相談抜きには決めれなかったほどだ。
長く大奥を取り仕切った春日局が、1643年(寛永20年)に亡くなると、大奥の風紀が緩みはじめた。とあれば、法令によって規律を強めるしかない。
そこで1670年(寛文10年)、新たな大奥法度が定められ、規律が強化されることになった。
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