江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-03-18

悪評高い「天保の改革」の本当の中身とは?

天保年間、大飢饉で困窮した農民たちは、一揆や打ちこわしで不満を噴出させていた。また、大塩平八郎の乱が起き、日本近海に外国船が現れるなど社会不安の募る中、1839年(天保10年)、老中首座となったのが水野忠邦(ただくに)である。
忠邦はさっそく寛政の改革をモデルに財政再建をかかげて、改革をスタートさせる。まず忠邦は、高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させ、経済の自由化を進めようとした。しかし、寛政の改革と同じように、既存のシステムを崩したため、かえって経済は混乱し、景気はますます後退した。
また、都市が発達する中、農村から都市へ人口が流出、農業従事者が減って年貢米も減少傾向にあった。
そこで、忠邦は、寛政の改革のコピーのような政策をとる。都市在住の農村出身者を故郷に帰らせ、農業に従事させた。さらに、棄損令で旗本や御家人の借金を実質的に棒引きしたり、金利を下げて民衆を救おうとした。
一方で倹約令を発して、歌舞伎や寄席を弾圧。芝居小屋も当時江戸郊外だった浅草へ移転させて、庶民の反感を買った。
忠邦が実施したことのほぼすべては、寛政の改革のコピーであり、結局、経済を混乱させ、町人の支持を得られなかったことも、寛政の改革とまったく同じだった。
最終的には、忠邦が失脚へと追い込まれたのは、「上知(あげち)令」の失敗だった。忠邦は、江戸や大坂周辺にあった旗本や御家人の領地を、幕府の直轄地とすることで幕府の力を強め、江戸、大坂近郊の治安を安定させようと考えた。ところが、大名や旗本の大反対にあって、結局、上知令は実施すらできなかった。
その失政を反対派に攻撃され、忠邦は罷免されてしまう。その後、暴徒化した江戸庶民に、廷を襲撃されている。
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genre : 学問・文化・芸術

tag : 歴史 江戸時代 雑学

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