江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2008-04-24

三大飢饉の被害はどれくらいだった?

江戸の「三大飢饉」といえば、享保の大飢饉(1732~3年)、天明の大飢饉(1782~7年)、天保の大飢饉(1833~6年)の三つ。もっとも被害が大きかったのは、天明の大飢饉である。
異常気象による冷害に加え、岩木山(現在の青森県)、浅間山(現在の長野県)の大噴火が重なって、とくに東北地方に大凶作をもたらした。米や野菜はたちまち不足し、人々は牛や馬、犬、草木の葉や根まで食べることになった。さらに疫病まで流行して、全国で30万人以上が死亡したとみられる。
『解体新書』で知られる杉田玄白も、その悲惨な様子を記録している。津軽や南部藩では、飢えた大人たちが子どもを殺し、頭蓋骨を割って脳みそをかき出し、それを草や葉にまぜて食べたと書き残しているのだ。ほかにも、空腹で半狂乱になった大人が、子どもを殺して食べたという例は多くの書物に記されている。
それほど事態が悪化した原因は、幕府が東北地方の被害に対しては、何の対策も講じなかったことである。事実、比較的余裕のあった西日本から東北地方へ、食糧が運ばれることは、ほとんどなかった。幕府が有効な手を打っていれば、東北地方の飢餓者の数ははるかに少なかっただろう。
ちなみに、享保の大飢饉では、冷夏とイナゴ、ウンカなどの害虫大量発生によって、四国、中国、九州を中心に凶作に見舞われ、およそ250万人が飢え苦しみ、約12000人の飢餓者が出たという。
また、天保の大飢饉は、冷害や洪水によって東北地方を中心に飢饉が広がった。天明の大飢饉を経験していただけに、幕府も今度は救済施設を設けるなどして対応。約70万人がそれらの施設によって救済されたと伝えられている。
スポンサーサイト

theme : 雑学・情報
genre : 学問・文化・芸術

tag : 歴史 江戸時代 雑学

comment

管理者にだけメッセージを送る

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
プロフィール

ジャンキー将軍

Author:ジャンキー将軍
江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

最近の記事
記事検索フォーム
カテゴリー
月別アーカイブ
リンク
ブログランキング

FC2Blog Ranking

最近のコメント
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
FC2カウンター
Pick Up
amazon
焼肉通販・ホルモン通販
すき焼き・しゃぶしゃぶ肉通販
スパイカメラ・カモフラージュカメラ通販
コルクマット・ジョイントマット通販
美容ローラー 針美人(しんびじん)

ヤーマン サーミコン式脱毛器
no!no!hair Smart(ノーノーヘア スマート)
エバンジェリスト BBクリーム
フリーエリア
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。