江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-06-26

大奥をゆるがした一大スキャンダルとその結末とは?

正徳2年(1712年)、徳川六代将軍家宣がわずか3年の治世で病没すると、ウワサ好きの奥女中たちの間で、ねたみと羨望のまじりあった艶聞がささやかれるようになった。ウワサになったのは、月光院と間部詮房(まなべあきふさ)との関係である。
月光院は、家宣の側室で七代将軍家継の生母。家宣を亡くして剃髪したときは、まだ24歳という若さだったが、わずか4歳の家継を抱え、絶大な権力者として大奥に君臨していた。一方、間部詮房は家宣の腹心だった側用人で、月光院の子の家継を立てて幕政にあたっていた。それで、大奥にいる幼君のもとに、ご機嫌うかがいに出向くことが多かった。ウワサの出どころはそこである。
「ほら、今日も間部様がお見えですわよ。月光院様との仲がよろしいようで、うらやましいかぎりですわね。「間部様は、おひとりの身でしょう。この間なんか、吹上の御庭で仲良く寄り添っていらっしゃって。まるでご夫婦のようでしたわ」
二人の仲が男女の関係まで発展していたかどうかは、はっきりしないものの、ともかく「深い仲」だと、大奥の誰もがウワサしていたのだ。幼君家継でさえ、あるとき母親と間部が密会しているのを見て、「詮房こそ将軍のよう」と、子どもならではの感想を口にしたことがあるという。
しかし、こうしたウワサには、月光院と間部へのねたみがずいぶん影響していたと考えられる。間部は、能役者から五万石の大名にまで成り上がった人物。身分制が厳格な江戸時代において、これほどの出世は異例である。月光院もまた住職の娘で、そもそも身分は高くなかった。それで、二人が幼君を盾に実権を握っていることを、こころよく思わない人間が少なくなかったのだ。
もちろん、幕閣首脳の間でも反感はつのり、間部が評定に出席しても、まったく相手にしないといった”イジメ”が加えられた。結果、間部は大奥の勢力を味方にしようと、ますます足しげく月光院のもとに通うようになったのである。
そんななかで起きたのが、正徳4年の『絵島生島事件』である。たのみの綱の幼君家継が風邪をこじらせて早世したあとは、当然ながら月光院の権威はガタ落ちし、間部は政権を追われて失脚した。
吉宗が八代将軍になった日、かつて権勢を誇った二人のことを、世間は次のような歌で皮肉った。「おぼろ月に手をとりかわし吹上の御庭の花の宴もつきたり」。
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tag : 歴史 江戸時代 雑学 大奥

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