江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-07-08

吉原で遊女の逃亡を防ぐしくみとは?

吉原遊郭は、当初、今の東京の人形町あたりにあり、その辺に葭(よし)(葦の異名)茂っていたことから、「葭原(のちに吉原)」と名づけられた。しかし、明暦3年(1657年)、江戸の三分の二を焼いたという明暦の大火で類焼し、それをきっかけに浅草にほど近い、現在の台東区千束に移された。
新しい吉原は、縦220メートル×横330メートル四方の一画で、まわりを堀で囲まれていた。出入り口は、「吉原大門」と呼ばれる門が一ヶ所あるだけで、外界とは遮断されていた。遊女の逃亡を防ぐための措置である。その吉原大門を入ると、すぐ左側に「面番所」があり、与力や同心が手下の岡っ引きを従えて詰めていた。さらに、その番所の向かいには吉原町の会所があり、「四郎兵衛番所」と呼ばれていた。ここでは、一番人気の太夫高尾のいた三浦屋の番頭、四郎兵衛が常勤していて、出入りする女性に目を光らせていたのだ。ここまで徹底していたのには理由がある。
吉原では遊女以外の女性もたくさん働いていたし、郭外の女性も、用事があれば、大門からなかへ入った。逃亡をくわだてる遊女は、そういう一般の女性に変装して大門を出ようとしたため、一般の女性が大門から入るときには、四郎兵衛番所に寄って証明書をもらわなければならなかった。そして大門を出るときも、その証明書を示す必要があった。一方、遊女は、一度大門から入れば、年季奉公が明けるまで、外へは出られない決まりだった。
ちなみに、明治時代になると、引率者のいる場合に限って、遊女の外出が認められるようになる。休養日には、遣り手ばばあに連れられて、浅草へ芝居見物に出かける遊女もいたという。
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