江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


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2008-09-13

「敵討ち」には、厳密なルールがあった?

250年以上もの長きにわたり、泰平の世が続いた江戸時代に、「武士の一分」を示す立派な行為、忠孝の教えの実践としてほめそやされたのが「敵討ち」である。逆に、親や主君を討たれたまま敵討ちをしなければ、武士の面目がたたず、臆病者として後ろ指を指された。敵討ちというと、曾我兄弟の敵討ち、赤穂浪士の討ち入りなどが知られている。幕府によって制度化され公認されるようになったのは、江戸時代に入ってからだ。
幕府公認の敵討ちとは、主君、父母、弟妹などが加害者を討つことだ。夫が、妻の不義を働いた者を討つ「妻敵討ち」もあった。世間から奨励された敵討ちだが、社会秩序を乱さないよう、それなりの作法やルールが決められていた。たとえば、目上のものが目下の者の敵を討つことは禁じられていた。つまり、子や弟妹が殺されても、親や兄姉による敵討ちは正当化されなかったのだ。また、正々堂々の果し合いや、主人が家来を成敗する手討ちによる場合も、その敵討ちは許されなかった。
また、敵討ちをする側を「討手」、討たれる側を「仇人」といったが、討ち手が返り討ちにあって、遺族がまた敵討ちをする「又候敵討ち」、打たれた仇人の遺族が討手を討つ、「重敵」も禁止されていた。さらに、敵討ちをするには、あらかじめ届けを出して幕府の許可を得なければならないルールがあった。敵討ちに成功しても届出を出していないと、殺人犯あつかいされたのである。
また、届出を出せば敵討ちの旅に出ることはできたが、仇人を探すのはひじょうにむずかしかった。仇人に出会う前に討ち手が死んでしまったり、捜しだしても仇人が死去していて本懐をとげることができないケースも多かった。敵討ちの成功率はほんのわずかだったのだ。それでも武士たちが敵討ちに出たのはなぜか。それが「武士の一分」なのである。命をかけてでも守らなければならない武士の面目や作法、そのためだったのだ。
江戸時代中期になると、この敵討ちは武士だけではなく、町民や農民まで行うようになった。町人、農民の場合は、届け出は必要なく、事後の取調べで敵討ちとわかってはじめて無罪になる決まりだった。
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