江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2007-11-18
家康の遺骸が日光にあるのはなぜ?

しかし、考えてみれば、家康は生前、日光とほとんど関わりはなかった。家康と密接な地は、生地の三河や幕府を開いた江戸、晩年を過ごした駿府などだ。それらの地ではなく、なぜ家康の遺骸は日光に埋葬されてたのだろう?
これをめぐっては諸説あり、いまだ定説といえるものはない。まず事実関係を確認すると、その遺骸はいったん駿府の久能山に葬られる。そして翌年、遺骸は日光に移され、改めて葬られる。
この急な改葬が行われたのは、家康の遺言で三年のうちに日光に移すことが決められていたからともいわれるが、そのキーマンとなったのは家康のブレーン役の天海である。天海は金地院崇伝との論争に勝ち、日光に家康の遺骸を移したのである。
天海が日光移転を強く主張したのは、天海が日光の貫主であり、日光の繁栄を望んでいたからだといわれる。一方葬ではなく、天海は、家康の遺言を忠実に実行しただけだったともいわれる。
また、表向きは関わりが薄かったようにみえて、家康にとって日光は特別な地だったという見方もある。
日光は、古代から関東での山岳信仰の最高峰であり、家康も日光に畏敬の念を抱いていたというのだ。また、鎌倉幕府の祖、源頼朝が日光を崇敬していたことから、家康も日光信仰を抱いていたという意見もある。
さらに日光が北方にあることも見逃せない。中国の陰陽五行説に基づくと、北の方角は宗廟の地にふさわしいとされる。江戸の北方にある日光は宗廟の地にふさわしく、家康は自らの死後を鎮守しようとしたという見方もできるのだ。
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遺骸は今でも久能山東照宮に眠っています。日光には魂を移したに過ぎません。
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