江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2009-02-24
「通な人」は、自分の名前を使い分けた?

人情の機微に通じることを「訳知り」、遊郭などの特殊な世界での風俗に精通することを「穴知り」といい、このふたつに通じている者を「通人」といった。また、どちらかいっぽうの分野にだけ精通していると「半可通」、どちらの分野にもまったく通じてないと「野暮」と呼ばれた。
この通人が好んだものに、「表徳」という習慣があった。表徳とは、雅号(文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名)や俳名、芸名。本名とは別につけた、その場やその作品にあった名のことである。いかに洒落っ気を出した表徳にするかが、その人の腕の見せ所であった。
たとえば、天才歌人といわれた四方赤良(よものあから)の表徳は、「寝惚先生(ねぼけせんせい)」や「山手馬鹿人(やまてのばかひと)」。吉原妓楼の主人の表徳は、「加保茶元成(かぼちゃのもとなり)」、日本橋小伝馬町の宿屋の主人なら「宿屋飯盛(やどやめしもり)」といった具合である。かなり洒落がきいているものばかりである。また、江戸時代に現れた「十八大通」を名乗る集団も表徳を持っていた。この集団は、十八とあるように十八人から成る。“大通”とは、通のうえ、つまり通人のなかの通人といった意味である。
たとえば、歌舞伎役者と同様な服装で知られた大口治兵衛は「暁雨(ぎょうう)」、高価な初鰹に大金をはたくほど裕福だった大和屋太郎次は「文魚」、黒い服装が吉原ではたいそう人気だったという下野屋十衛門は「祗蘭」を名乗った。
このように、表徳は江戸時代に通を名乗るためには欠かせない小道具だったのである。
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江戸を堪能
初めて訪問、江戸の面白さを堪能しました。ちょくちょく参ります。また、楽しませてください。
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