江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
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2007-11-27
絵島事件の陰にあった大奥の権力闘争とは?
大奥の最高実力者だった絵島が、大奥から追放されたのは、1714年(正徳4年)2月2日のことだった。その数日前、絵島は月光院(七代家継の生母)の名代として、芝増上寺に参った後、木挽町(現在の銀座)の山村座で芝居見物を楽しんだ。そして、午後6時の門限ギリギリに帰り、門番に頼んで中へ入れてもらっていた。
当時、大奥の女性たちは、仕事で外出したついでに芝居見物や買い物をしたり、親族と会ったりしていた。門限までに帰れば、その程度の息抜きは大目にみられていたのだが、そのときに限って絵島はとがめられ、十数人の奥女中とともに追放処分となったのだ。
さらに、看板役者の生島新五郎が北町奉行所で拷問にかけられ、絵島との密通を自白する。絵島は頑強に否定したが、2人とも有罪とされ、絵島は信州高遠藩(長野県伊那市高遠)の藩主へのお預け、生島は三宅島へ遠島となった。と同時に、1500名もの関係者が処分された。
これが世にいう「絵島事件」だが、絵島が標的になった裏には、大奥での権力争いと大奥改革がからんでいたとみられる。
当時、大奥では、前将軍・家宣の正室だった天英院と七代家継の生母である月光院が対立し、権力争いを繰り広げていた。とくに、旧勢力である天英院派は、新興勢力の月光院派の追い落としを狙っていた。江島は月光院派だったため、旧勢力の標的となり、わずかなスキをつかれ追放されたとみられるのだ。
また当時、大奥は莫大な経費を食いつぶしていて、改革の必要性が指摘されていた。そこで幕閣らが絵島事件をでっちあげ、大奥の綱紀粛清をはかったとも考えられる。事実、この事件をきっかけに奥女中の数が減らされ、贅沢も厳しく規制されるようになった。
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